新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

勉強してて思ったこと。

柄にもなく勉強していた僕がふと思ったことがある。







今学校で学んでいる題材、英語で扱う地雷ゼロ運動、現代文の「文字からコンピュータへ」、倫理の自然科学の確立とこれから。これらには繋がりがある気がする。





英語の地雷ゼロに関する文章。坂本龍一が、地雷除去運動のためにCDを作ったエピソードが主軸に書かれている。戦中、戦後に渡り無差別な攻撃を与える地雷の残忍さ、それを埋める人間の冷酷さを感じた。

授業で配られた、歌詞カードのプリントにクリス・ムーンという人の解説がある。この人は地雷で片腕と片足を失った後、不屈の精神でフルマラソンを走ったり、五輪聖火ランナーをやって、地雷除去運動をアピールしている人だ。彼の一節にこんな言葉があった。「『テクノロジーは我々の人間性よりも早く発達してしまった』とアインシュタインは言っています。今こそ、我々の人間性はテクノロジーに追い付き、またたとえ人種や信条が違っても、人々の差異より共通点の方が多いことに気付く必要があります。」







現代文の「文字からコンピュータへ」は人間社会のうつろいと行く末がテーマの説明文。文字による意味の規範化(辞書を作ったりして、言葉の意味を定めること)によって人類は共同体の認識を高めることができ、国家による社会を築くことができた。

今人類はコンピュータというすさまじいまでの情報処理能力を持った道具を得て、文字で言葉を規範化したのと同様に、コンピュータのメモリーに権力、判断を委ね、新しい時代へ向かおうとしている。

しかし、そんな中にあっても人間のもつ肌の感覚を忘れずに生きていかなくてはいつか人間自身がコンピュータになってしまうかもしれない…そんな感じのお話。







倫理の、自然科学の確立。人間は、自然を経験し学ぶことで人間は自然を克服できると考え、物理、化学を発展させ、現在の科学技術を築いた。その進歩のすさまじさは歴史をみれば一目瞭然。しかしそれに伴い発展しなかったものがある。それが人間の倫理である。







科学の結集の一つの形は兵器である。

人間は弓矢を手にした時から命を奪うことをためらわなくなったという。死の恐怖と殺す罪悪感、身体的感覚が無くなったからである。

科学は人間の倫理が武器に追い付く前に武器を進歩させていった。殺害、略奪。これらは生きるか死ぬかの戦いだ。しかしこれにより一瞬で相手を服従させることも、努力せずに富を得ることもできる。だからブッシュは再選する。さらに殺すという感覚を感じずに済む飛び道具を使うことにより人間は自らの感覚を麻痺させ、戦争は激しくなっていった。武器の脅威はさらなる強力な武器の脅威を生み出し、その最終的には核兵器に行き着いた。使えば地球が吹き飛ぶほどの脅威。

殺す感覚を知らない上、人の死に対する感覚が麻痺した僕らはアフガニスタンで、イラクで、北朝鮮で何人死のうとそれを重く捉らえたりすることは難しい。



だからこそ、みんなここで立ち止まって、人間の倫理観、人間らしさについて思いを馳せなかったら、人間は欲望に歯止めが効かなくなって、感覚も麻痺してコンピュータ化して、いつか利害関係の計算が狂って核爆弾のボタンを押して自滅してしまうんじゃない…?なんて異常に極端な話しだけど。





まあ僕もこんなこと主張できる偉い人間じゃないんだけど(笑)ただ思っただけっすよ。イタいとか言わないでちょ