新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

僕の存在意義

くそっ!僕の存在意義ってなんなんだ?僕はなんのために生きているんだ?希望がみいだせない人生に生きる意味なんかないんじゃないか?

そんな疑問に対する答えの一つのサンプルを、「夜と霧」の作者V・E・フランクルは提示してくれているww



いい加減、生きることの意味を問うことをやめ、わたしたち自身が問いの前に立っていることを思い知るべきなのだ。生きることは日々、私たちに具体的な問いを迫ってくる。そこで考え込んだり言辞を弄するのでなく、ひとえに行動によって、適切な態度によって、正しい答えは出される。人生とは、各個人の前に展開されている状況が要請してくる問いへの答えをだすことなのだ(要約。改変、輔弼多)



フランクル氏は、ナチス強制収容所から生還した心理学者であり、生きる意味について世界に存在しうる最も過酷な状況で考えさせられた人間だ。彼は、上記のような思考の転回を挙げている。



生きる意味ってなんなんだ?人間が誰でも持つこの問いには、一概に答えることができない。常に人生は、重大なことであれ些細なことであれ、私達に突然二択を突きつける。やるか、やらないのか。苦しむか、逃げるか。そのあまりに具体的な選択とは、あるときは就職だったり、あるときは結婚だったり、昼食に何を食べるかだったり、赤信号をわたってしまうかだったりする。しかしその選択の積み重ねこそがその人の「生きる意味」を形作っていくのだ。

このようにどんな人にも、彼固有の状況が展開されているし、その答えも具体的で、選択制だ。

生きる意味を問い続けて、膝を抱えて心の迷宮に入り込むのではなく、日々迫られる選択に責任をもって答えを出し、それにふさわしい態度をとり続けていくことが、やがては人生を切り開き、生きる意味を創出することにつながる。たとえ天災に見舞われようと、命さえ奪われなければ自分なりの答えを出し続けることはできるし、そこから新たな希望や生きがいが生まれることもある。震災後の神戸がいい例だ。

まあこんなことをフランクル先生は語っている。この偉大な先人の意見は、普遍的な真理に最も近い気がするし、現代に生きる僕たちにとっても、生きていく上での一つの有力なテーゼとして存在すべきではなかろうか?



的なことを「人間学」という授業でやってるww

ここまでもってくのに長かったwwこの授業は、キリスト教的道徳と人間存在について考えるの融合みたいな授業で、メインイベント?として「夜と霧」に挙げられている作者の意見の発展形のようなものをグループでまとめて発表するという摩訶不思議な一面を持ち合わせている。これが結構大変。しかも担当教授、抽象的な概念を説明しなきゃならない授業の割りに口下手すぎる!高校倫理の神H先生と比べて500倍つまらん授業が展開・・・

課題図書の夜と霧が良書でよかったものです。

フランクルの意見を現代に生きる私たちはどう受け取り、どのような局面に生かすべきか?みたいな方向でグループの議論は展開しつつあるようなないような。具体例考えるのむずいし、全員で一環した発表をしろとか教授は意味不なこと言って来るし、発表まで3週間なんだけど、なかなか難しい授業だよ。



以上!某サイトに規定された僕の存在と、そこから想起されたフランクルの思想転回、人間学の苦悩についての日記を終わります!