新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

塩狩峠

今日は紅白戦と前期打ち上げですた。紅白戦は3打数2四球ノーヒット、打ち上げは飲んで食って飲んでた。たんまりとね。FBのたすくが元気だった。Y田はいつになく酔っ払った。

まあそれはともかく

塩狩峠、読み終わった。久々のガチ読書の味は格別でしたよ。全く意識してえらばなかったんだけどキリスト教登場するんだよね。前期のレポートで遠藤周作とかキリスト教文献読みまくったんだど再びめぐり合うとは。実話をもとにした小説、です。

明治10年、永野信夫は士族の子として生まれる。そして厳格な祖母トセに、信夫の母親は産後すぐ死んだと聞かされ育てられる。しかし信夫が小学校に進んだある日、ひょんなことから信夫の母親は生きているということがわかり、そのことを知ったトセは脳卒中で死ぬ。

開明的な考えを持った信夫の父貞行はクリスチャンである信夫の母菊と結婚したのだが、トセはキリスト教を耶蘇と呼び、二人の結婚を認めず、幼い信夫を引き取り離縁させていたのであった。

菊は再び貞行との生活を始め、信夫の母親となるが、キリスト教を忌み嫌う当時の風潮とトセの教育からキリスト教信者の母の生活になじめず、母は自分よりキリスト教が大事なのではないかと疎外感を感じ始める。

そのため亡きトセの「士族」としての教育が生きる上での指針となった信夫は自分の気持ちは決して表に出さず、何事にも屈することのない強い意思力を持った人間に成長する。しかし大学に進学しようかというその矢先、貞行が急死し、信夫は進学を断念する。この時信夫の心には、不可避である死への恐怖が深く根ざした。

裁判所に勤めることになった信夫は、ひょんなことからクリスチャン小説家と知り合い、彼の書いた小説に深い感銘を受ける。そして自分が、キリスト教のことを何も知らずに毛嫌いしていたことに気づき、未知の神という存在を気にするようになる。

二十歳になった信夫は、北海道に引っ越していた小学校時代の親友と出会い、親友の妹ふじ子に恋をする。ふじ子は生まれつき片足が悪かったが信夫はふじ子に惹かれていた。

しかし北海道に帰ったふじ子が当時死病とされていた肺結核脊椎カリエスを併発したと聞き、信夫は衝動的に北海道へ渡り、ふじ子を見舞いつつ鉄道に勤める。またキリスト教信者であるふじ子や町の伝道に感化されクリスチャンになる。

信夫の意志力は仕事にもキリスト教の伝道にも発揮され、鉄道員にも入信者が増え始めたころ、不治とも思われたふじ子の病が完治した。

結納のため信夫は旭川から札幌への列車に乗った。しかし急勾配の塩狩峠で、客車は機関車から離れ逆走を始める。パニックの中祈るだけでは駄目だと思った信夫は単身車外のハンドブレーキを操作し、暴走する客車の速度を緩めることに成功する。しかし客車は完全には止まらず、すぐ先には再び急勾配が見えていた。この遅い速度ならば、自分の体で客車を止められないかと考える。

目に浮かぶ親族やふじ子の姿を振り払い、信夫は線路に飛び込む。信夫の体に乗り上げ、客車はゆっくりとその動きを止めたのだった。



ぶっっちゃけ長編だから全然まとまってないけど、この小説のテーマは「愛の限界」ではないかと思う。信夫は強固な自制心を持った人間であるからこそ、自らの思い通りにならない死や、性欲などに関し恐怖や違和感を持っていた。その恐怖を越えさせてくれたのがみずからを超えた存在への信仰であり、愛だったのかもしれない。

愛とは人間が他人を思いやる行為であると同時に、自分の権利を犠牲にする行為だ。キリストは全ての人の罪を背負い磔刑になり「汝の敵を愛せ」という言葉を残した。この極限とも言える愛の形をつねに念頭に置くことでキリスト教は自己犠牲としての愛をあがめているのだと思う。キリスト教のシンボルは十字架で、十字架は犠牲であると同時に愛なのかも。

作中には「神は愛なり」という言葉がよく出てくる。つまり、現実世界に存在する愛という行為を通して、人間は神を知ることになる、そういうことではないだろうか。だからイエスは死なずによみがえり、人々の心に生きるっていうことになってるのかも。ラブよりサクリファイズだね。大事なのは。

神学って難しいけど愛と信仰って紙一重なのかね。あ、でもちなみに僕はクリスチャンじゃないから、タスク。

作者の三浦綾子はクリスチャンであり、肺結核脊椎カリエスで13年の闘病生活をしている。漱石にせよ志賀直哉にせよ太宰にせよ、作家の病や人生におけるターニングポイントが必ず作品に現出してくることを思うと、この塩狩峠三浦綾子の渾身の作であるように思えてならない。

名作には名作と呼ばれる所以があるとおもった