新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

ある、せんせいのはなし

うみしろで過ごした人はバチコン、といえばわかるだろうか。

今年定年退職したやました先生が3日早朝亡くなった。謹んでご冥福をお祈りいたします。



バチコンはよれよれのシャツにサンダルという出で立ちでいつもニコニコしながら戸山地区を歩く、いかにも好々爺といった感じの、昨今珍しいうみしろ一本の名物教師だった。その個性の強さ故か、かつては他の教師との衝突も絶えない熱血教師だったらしいが、僕達の在学中は、いつも生徒に気さくに接してくれる第二のおじいちゃんだった。バチコンというニックネームは、顧問である野球部でノックを打つときに「バチコンバチコン」と言いながら打ったことからきている(異説あり)らしい。事実、僕らが中学生のガキだったころには「よーし、バチコンノックやるぞ!!」といって相手をしてくれたものだ。バチコンには自慢の娘がいて、娘が結婚するとその写真を、孫が生まれるとさらにうれしそうに写真を懐から取り出して語りだす。そんな時のうれしそうなバチコンはどんな教師より人情味にあふれていた。





6年間、僕のとなりにはいつもバチコンがいた。そして悩む僕を肯定してくれた。時にはアドバイスをくれた。元気づけてくれた。



野球がやりたくて仕方なかった僕は中学生になってすぐ野球部に入った。しかし当時の中学野球部は高校と違ってきちんとした指導者もおらず、顧問も多忙でなかなか練習に顔を出せない状態だった。一年生も練習に来たりこなかったり、試合も自分達の代にならないとこれないとわかったあたりからみんなこなくなってしまった。僕はずっとベンチでバチコンの横に座りながら、先輩の名前を教えたり野球の話をした。バチコンは僕の低レベルだったであろう野球の話をいつも「うん、うん、やすいは野球をよくわかってる」とほめてくれた。

いつもバチコンは練習に来てくれた。授業が終わるとグランド脇のベンチに腰掛け、新聞を読み、練習をのんびりと眺めるバチコンの姿はグランドの風景の一部だった。のんびりとしていたバチコンだが、僕達がケガをしたときにはすぐに保健室を開けてくれたり、病院に連れて行ってくれた。

日曜日の試合にもいつも顔を出してくれた。中学生から野球を始めた僕達の稚拙なプレーを笑顔でいつも見に来てくれた。中学生の最後の大会で、弱小だった僕らがある程度まで勝ち進んだことを誰よりも喜んでくれた。





高校野球部にはいってから、ヘタでポジション的にも需要が無かった僕はマネージャー兼選手になった。正直、なったときは悔しかった。チーム内でのマネージャーというポジションは「練習試合の電話ばっかかけて、練習をサボるヘタでセコい奴」といったものだったから。でもそんな僕にバチコンは「やすいはがんばってる、生徒会のときといい、やすいはみんなのために汗を流せるんだ」といって情けない僕をいつも元気づけてくれた。

僕は練習試合が決まると必ずバチコンに連絡した。バチコンはやっぱりきてくれた。スコアを書いていた僕は時に監督の、時にバチコンの話相手になった。

バチコンは人の名前を必ず聞く。忘れる時もあったけど何度でも聞いて覚えようとする。うちは一学年何百人と入っては出て行くのだ、正直そんな教師そうそういなかった。人の名前を覚えることの大切さを知った。



僕らの代になると僕は監督からキャプテンに指名された。夏にスコアラーだった僕がキャプテンなんて、最初は驚きだった。バチコンは喜んでくれた。

その後は苦難だった。選手とコーチ、監督、顧問との橋渡し。余裕もへったくれもなかった。選手も僕にきっと不満があったに違いない。野球もやっぱり上手くなかった。練習試合も負けがこみ、公式戦も夏まで0勝。周囲の期待もそう高かったとはいえなかった。でもバチコンは真夏のスタンドで応援してくれた。

結果、実に4年ぶりに夏一勝できた。9回の4点逆転勝ち。野球をやって、キャプテンをやって初めてよかったと思えた。

僕の涙のにじんだ視線の先には応援してくれた人たち、そしてガッツポーズのバチコンがいた。



教師だった何十年間かの間、うちの野球部の一番のファンはバチコンだったに違いない。



引退してからも、グランド脇のベンチに座るバチコンと進路などについて語った。しかしバチコンはこのころから元気がなかった。ベンチに座りながら疲れたように眠り込んでしまうことが多かった。「寒い日がきつい、でもあと一年、おまえらの一つ下のやつらと俺は卒業するぞ!」とよく言っていた。

大学が決まったとき、バチコンは合格を喜んでくれた。そして「やすいの武器は人望だ、おまえはそれさえあればどこにいってもやっていける、がんばれよ」とメッセージを送ってくれた。



僕の6年間の記憶にいつもいてくれたバチコン。そんなバチコンに僕は卒業して何を返せただろう。時々野球部の練習に顔を出して近況を語ったりなどしていたが、在学中ほど親密に語る機会と時間を設けることがなかったことを悔やんでも悔やみきれない。僕が成長期におそらく一番長く接したであろう恩師、バチコンと酒を酌み交わしたかった。そう思ってもできない。涙が止まりません。

バチコンは長い教師生活の中で、多くの生徒に色彩豊かな思春期の記憶を刻んだに違いない。師であり、家族にも近い暖かさを持つせんせい。

その功績は偉大だ。

これからはバチコンは天国のベンチに腰掛けながら孫の成長を、そして僕らの成長を楽しみに見守ってくれるのだろうか。



本当にありがとうございました、そしてゆっくりと休んでください。ばちこんせんせい。