新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

ビッチ論

後輩の家や漫喫に止まりこんでシコシコ作業しつつ、今月もようやく新聞の発行ができました。昨年10月当初は絶望的に見えた仕事が淡々とできるようになり、やがて快感に昇華してきたあたりが成長なのだろうか?



そんなこんなでしばらく家に帰らず、また帰っても疲労で即就寝する生活をしていたためもうやばかったんですね。ルー大柴に言わせれば

「ミーのビトイーンマイレッグの藪からスティックがオールウェイズにエレクトしてもうカム寸前よ!」

ってとこでしょうか。3日溜まればSEEDがフル充填されるのは男子校的にも学術的にも信憑性の高い説であり、昨日の僕は間違いなくMAXだった。



これはもうやばいだろ、絶対きもちーだろ。なんせいろんな精神的な鬱憤も肉体的なカルピスもMAXなんだ!ここはとっておきの葵みのり「女尻」の出番だぜ!

勝手に盛り上がり悟りのポーズを取り、自分との戦いを始める僕。

絶対に負けられない戦いが、そこにはあった。



しかし、しかしだからこそ。あのクワトロ大尉がフル充填のハイメガランチャーを撃ち損じたように、僕は葵みのりのカムカム状態でショットすることが叶わず、不覚にも朝青龍のようにたくましい男優の尻のシーンでフライングしてしまったのである。ありがちな失敗だが、久々の大一番を期待しただけにぼくの失意もハデに大きかった。

「・・・抜きどころが悪いとこんなものか」

赤い彗星も堕ちたものだ。





大きすぎる期待は時に大きな失望を生む。



漢なら誰しも体験するであろう儀式の後の敬虔な時間、いわゆる「アフターベーション」に僕はまた一つの悟りを得て静かに眠りについたのだった。







さて、今回の新聞の発行ではやたらと「ビッチ」という言葉を発していたような気がする。

僕がいつの間にか無意識に発してしまうようになったこの言葉、なんて意味なんだ??はてなダイアリーよ。







ビッチー英(罵倒表現):雌犬。娼婦。



長らく悪いニュアンスの言葉として存在してきたが、近年「自称ビッチ」「ビッチと呼ばれたい人」が増加している。

彼女(彼)たちは罵倒語に新たな意味を付与して肯定的なニュアンスで使う。

例「憎いねー。この、ビッチ」「最近アタシ乙女が嵩じてビッチ寸前よ」

※この語の使用時は、悪いニュアンスで言っているのではない、いい意味でビッチだよ君は、ということが相手に伝わるよう気をつけること。











ちげー。ぜってーちげーよはてなダイアリー!僕らが言いたいのはこんな開き直った雌豚的な意味のビッチじゃない!こんなこと書くから「セレビッチ」とかいう開き直った雑誌ができちまうんだ!ビッチって言われたら普通に胸に手を当てて反省してくれ!





多分上記の意味(俗に言うサセ子)でのビッチに僕のような陰気DTが接する機会はあまり、というかほぼ全くない。では僕は何に対して自然に「ビッチ」という言葉が脳裏に浮かんでしまうのだろう。とりあえずぱっと思い浮かぶのはこんなもん。



1。社会的に空気が嫁ない女。

空気嫁。KY。散々使い古された言葉である。それが小さな枠の対人関係内でのKYである場合なら、なんとか笑い話や「ああ、あいつしょうがないなあーww」くらいで済むものだ。だがそのKYが、多数の人間で構成される団体、組織等の小さな「社会」で展開された場合は悲劇だ。それでもヒステリックにアイを叫ぶ方々は存在する。これマジ。



「あなたがアイを叫んでもあなたがいるところが世界の中心じゃないのですよ!!あうあうあう」



組織の向いている方向と全く違う方向を向いてぎゃーぎゃー言われたり、あまりに利己的としか言いようのない都合で行動された日にはこの言葉が天壌から降臨するだろう。「マジビッチ」







2。ステレオタイプな女。

ここは考えてみたらほとんどスイーツに近い。「お前らその思考回路はどこから手に入れた?JJか?ananか?もうちょっとリアル見ろ、そして脳使え」と小一時間問い詰めたくなる会話を般教や大教室の授業中の後ろの席でブヒブヒ大声で展開する輩。顔がよかろうとひどかろうと関係ない。上記的な意味で迷惑をかけられる上、そのあまりにも遅れた思い込みと貧しい思考から編み出される会話を聞かされるのはもう勘弁だ。ラノベ投げつけるぞこんにゃろ。「マジビッチ」



特に今回の発行でメインに感じたのは1。もうこの年になると、あまりにも当然のことが守れてない人や社会常識がない人を面と向かって怒れなくなってくるんだよね。もうため息にすべてを込めてしまいたくなるというか。



自分はなんだかんだいって中高で野球部なりなんなり一定の「組織」「小社会」に身を置いてセコく生き延びてきた人間だったんだと今になって実感することがある。

なぜなら、組織で生きる当然の配慮、常識を最低限身につけた人とそうでない人に、あらゆる意味で差があるなと大学に入ってから感じることがあるから。やはりどこかに身を置き、身を削ることでその身は磨かれるということなのだろうか。









とまあ散々ビッチビッチとこき下ろしてきて、フェミニストに完膚なきまでに論破されそうな文章をたたきつけてみましたが。



はっきり言って女性は、男から見れば皆少なからずビッチ的要素があります。多分それはあるがままの事実だと思うのです。

たとえるなら女性が「本当男って下品でしかたない生き物よね。すぐに下ネタ言うしなんでもズバズバ言うし」という感覚に近いのだろうと思う。



社会性という観点から見れば、女性の社会的半径と男性の社会的半径は明らかに男が広い。胸に手を当てて見てください。思い当たるところはありませんか?女が5人もいれば必ずなにかしら喧嘩が始まるはずwww多くの女の友情が脆くも崩れやすいものであることもこれを物語っています。



男の社会的「メンツ」にこだわる性質に対して女はあくまで直感的、本能的な判断を重視、大切にする性質をもっている。これは女性の人生が「月経」という本能的サイクルに支配されているからなのか、歴史的に、子を生み、育てるという家庭という小さな社会で人生の大半を過ごす傾向が強いが故のものなのかはわからない。





男と女、互いの感覚は決して交わることのない流れを汲んでいるけれど、ずっと毛嫌いしてちゃいけない気がする。

僕はもっとその向こう側に行きたいから。僕の乏しい語彙では上手く言い表せないけど。







スーパーマラ男は清純な姫を助けるために、キノコを食べて大きくなったり亀の頭を踏んづけたり、苦難を乗り越え粉骨砕身の努力の末クッパを倒すが、救出した実際の姫はビッチ姫であった。





「姫が、僕の脳内では清楚で品行方正なイメージだった姫がビッチだったなんて、おお、ジーザス」



こんな瞬間、人生いくらでもあるのだろう、マラ男よ。





大きすぎる期待は時に大きな失望を生む



ただその夢と現実とのギャップをあるがままと受け入れられるようになった時、少しだけ大人になれるのかもしれない。知って、理解して納得した上での受容は諦めではないと、僕はそう信じたい。



そう、レットイットビー。ビッチとはあるがままのもの。























やっぱ無理。マジビッチ。クソビッチ。僕はまだまだクソガキです