新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

英語で「イク」は「come」

今日大学のメインストリートを歩いていたら









車地に会った







意味わからん(海城生ネタでごめんなさい)





まだ月曜日に3つテストを残しているんだが・・・

書きたいので書く。



英語のテストがあった。普通は英語のテストっていうのはテスト期間じゃなく、最後の授業時間中にやるもんなんだけども、僕のクラスだけテスト期間中にあった。

まあこのこと一つとってみてもそうなのだが、この一年間、多少疑問に思うことの多い授業だった。まず先生は英語で話さなかったし(高校はやたら英語で話す教師だったから、去年の初級英語も含めて、教師が英語で話さないのにかなりの違和感があった)授業は、シェイクスピア作品をオマージュした青春学園ものの映画の台本の精読に英文学的な解説、イギリスのコメディ映画の翻訳に、ビートルズの歌詞の読み込み。一年生の英語で割とスピーキングが多かった(まあ初級だったのでなあなあな部分もあったがww)ことを考えると、確かにやや興味の持てる内容ではあったが、あまりにも英語喋って、聞く作業が少なかったんじゃないの?と思えてならなかった。



そんな授業を展開してきた先生(おそらく30代後半、男)が、今日最後のスピーチをするというということでいつになく神妙に聞いてみた。

その内容をかんたんにまとめるとこうだ。





N先生は数年前、イギリスでの留学生活を経てうちの大学に嘱託教師としてやってきた。大学が先生に求めたのは、「英語の上智」という社会の無言の要請に応える、即戦力としての英会話能力のアップ、つまりスピーキング、リスニング能力の向上を目的とした授業だった。

しかし大学の意に反して、先生は明らかに英文学偏重の授業を行った。



先生は「大学の質をこれ以上下げるべきではない」と思って先生なりの授業カリキュラムを組んだ。単なる英会話能力の向上、それなら英会話学校に行けばできるし、本気で留学に行けばなんとかなる、要するに本人の意思の問題だ。

なら大学の教えるべき英語とはなんなのか。それは英語という言語を持った文化圏の持つ特徴や歴史、その文化に流れる思想、教養を教える授業なのではないかと考えた。それが「一般教養の英語」ではないのかと。

英文学なんて古臭いものを学んでも仕方ない、社会に出て役に立つ英語能力の向上を目的にした授業をすべきだ、というような学生の意見もあった。しかしできるだけ学生の興味をそそり、モチベーションを持続させる教材を探し、使用することで、少しづつ学生も授業の真意を汲み取ってくれるようになり、今の形態を取るに至った。

一年間、疑問を持ちつつもついてきてくれた学生もいると思うが、僕はこのような、僕が理想とする英語教育を目指してやっていきたいと思っているので、最後にいくらかでもその意図を感じ取ってくれると幸いだ。



こんな感じだ。

正直「英語の授業=英会話のスピーキング、ヒアリング、リーディング、ライティング能力のためのもの」と短絡的に公式を作っていた僕にとってそれは青天の霹靂だった。これでは僕の考えていた「英語」という授業はいつまでも大学の第二外国語レベルだ。何?チャイ語を落としてるじゃねえか、お前、だって!?いや、そんなの関係ない。第二外国語レベルクリアできてないとか関係ない。



それはともかく、先生の標榜する通り、大学レベルにもなれば、今まで中高6年間プラス受験勉強でやってきた英語からステップアップして、世間一般の「現代文」的観念の授業にまで昇華したレベルの授業が行われて然るべきなのだ、フムフムとハデに納得してしまった。



正直なところ、50年前の日本人より遥かに読書量が減り、日本語能力も劣った今の日本人が、上っ面の即戦力の英会話能力だけ身につけたところで、国際社会で恥を書くのは容易に想像がつく。

どんなに他の言語を学んだところで、コミュニケーション能力の最大の根源は思考能力であり、それを構成する様々な価値観、文化の一定レベルの知識、そして教養が無い限り、その人間は本当の「国際人」として日本の名を背負って立てる人間になれないような気もする。





たとえば福田首相がサミットか何かの国際会議に出席して、通訳をつけた福田首相の映像がニュース番組で流れるとする。するとコメンテーターが



「日本の首相が英語で話せないなんて恥ずかしいですね〜、この国際社会で、アハ」

と皮肉っぽく言う。福田首相が云々かんぬんはさておき、ここに集約されているのは



「英語しゃべれなきゃまずいんじゃないの?だって世界共通言語だよ?

オレら遅れてるんじゃないの?」



という一種脅迫観念にも似た焦りだ。

食にも文化にもグローバル化が進み、社会に出ているオヤジを見ればTOEIC何点以上で給料が違うという。確かに英語能力はこれからますます必要になっていく気がする。しかしそんな風に「英語=技術、能力」という短絡的な要請をしてくる社会に疑問の眼をもって相対していかなければならないというのもまた事実なんだろう。





先生の言うように、自分が本当に、先哲や、今に生きる多くの思想、価値観に触れ教養を身につけた人間になるというのはあまりに現実味が薄いような気がしてしまう。でも、それを意識してできる範囲でちょいちょい文学やらいろんな人の考え方に触れて、それを学ぶことが、いつかはコミュニケーション能力の一つのカケラにでもなるのかもしれないなと、そんな風に思った。



最後に先生はこんなことも言っていた。

「みなさん、もっと本を読んでください。僕自身イギリスにしばらくいて感じたことなんですが、英語ばかりやっていて日本語を使わなかったら日本語能が低下しました。英語教師が言うのもおかしな話ですが、本を読んで、日本語ももっと勉強してください。皆さんはネット世代ですから、本を読まなくても済ませようと思えばできると思うんです。でもレポートも、なにかのコピペと皆さん自身が原文を読み込んでそれなりに考えた結論ではまったく重みが違うしすぐにわかります。やがて、その積み重ねはみなさんの思考能力に関係してくるんです」





レポートといえばパブロフ状態でコピペしてしまい、何か知りたいと思えばPC開いて、ググったりウィキペディアを見て全て知った気になりやすい僕らネット世代の人間だからこそ、本をゆっくりと読んでうんうんうなずきながら、もしくは首を捻りながら、脳みそをこねる時間が必要なのかもしれない。