新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

K.Yの妄想は2次元なのか?

みなさん元気ですか?僕は元気です。やることはまあいろいろとありますが、生きてさえいればきっとささいなことをシアワセの糧として生きて逝けるのです

バナナがおいしいです





ちょっと今日は妄想と独断専行が炸裂する長い日記になるので、ご理解をいただければ、ご一読を願います・・・











先日、1年生の後輩に「安井さんは、3次元に興味がないんですか?」



と聞かれた。



問い詰めたい。小一時間問い詰めたい。その場でペラペラ言えないのだがww

2次元が好きならオタクなのか?「オタク」はアニメ、マンガ、ゲームに耽溺しているからキモいのか?現実から背を向けて不満を溜め込んでいるから社会的な危険因子なのか?落伍者なのか?キモメンなのか?DTなのか?



そもそも僕たちの暮らす日常「3次元」は本当の現実、リアルといえるのだろうか。















「3次元」の世界には大きくわけて本来の自然界と、人間が作り出した、僕たちが住む人工の世界の2種類がある。

僕たちは南米の未開の地に住む少数民族ではないから、文明が作った「都市」という人工の世界に住んでいる。コンビニがあれば電車も走っているし、TVやパソコンもあるし都心に行けばコンクリートジャングルが広がる。都市は当然自然とは相反する存在だし、自然界の本能とは異なったルールで生活する生物が人間なわけだから、都市の人間が自然界の「生の」感覚を失っていくのは当然のことだろう。





都市では、人間が集団生活を効率的に営むことを目的として形成された都市の常識、価値観、ルールに基づいた生活が営まれる。

日本は資本主義だから当然ながら持てる者、持たざる者の格差があり、人々は一部の「勝ち組」と多くの「負け組」に分かれる。

そしてそこにはモテるものとモテざるものの格差もあることは皆さんが身をもって感じてらっしゃるとおりでございます(往々にしてモテざるものに原因があるのですがねwww)





僕たちは、そんな物語に登場する主人公の一人だ。FF7でいうとクラウドだ。いや、イケメンでも金髪碧眼でもないからもっとリアルな平成のダメ男像、エヴァンゲリオン碇シンジかもしれない。

3次元の中ではうれしいこともあるが、悲しいことも、不条理だ!と憤らざるをえないことも、悩み事も尽きない。特に持たざる、モテざるものほどその悩み、負のエネルギーは蓄積されやすい。











しかし僕たちは幸いにも、「言葉」という武器と「妄想」というアビリティを持っている。動物が本来の自然界1つしか生きる世界を持てない一方で、人間は妄想によっていくつもの世界の可能性を想像することができるのだ。



主に妄想というアビリティが発動するのは不満が限界に達した時である。「どうすればこの地獄、閉塞した自分の周りの世界を脱出できるのか」という救済を求めて碇シンジは妄想を続ける。アスカとキスする!綾波とイイ関係になろうとする!

多分世の中の人間のすべては、自分の好きな作品を好きな展開に持っていって楽しむ同人作家と同じ作業をしているのだと思う。







そんな何万人の同人作家、碇シンジが脳内でそれぞれ紡ぎ出す妄想、理想の全てが「2次元の世界」だ。

そして何人かの碇シンジがそれを映画や小説、アニメやマンガとして発信したとき、その視聴者のうち何人かは「この物語、妄想ならば3次元の地獄から脱出できるのかもしれない」と希望、救いを感じるのだ。

そしてその中でたまたま「アニメ、マンガ、ゲーム」といった分野に傾倒することになった人々をオタクと呼ぶのかもしれない。







ちなみに2次元で救いの希望を見出しても、3次元的には当人は全く救済されることはない。経験値0pt。しかしかりそめの妄想こそが3次元で絶望した時に差す一筋の希望の光となることもある。断言する。座右の小説、映画、マンガ、アニメが誰にでもあるだろうと。







そして悩みに悩んで多くの、物語を浴び、作り、様々な人間が織り成す世界の可能性を知る人間はより思考の世界を拡大、強化できる。これは事実だと思う。

だって、求めれば翌日から好きなアノ子と付き合えるイケメン世界よりも、



「あ〜あの子マジでかわいい!ヤバイ、マジヤバイ宇宙レベルでヤバいよ!でもこの顔だとかなりの確率でフられる!いやもう崇拝のレベルに達してるあの子にフられたらマジ死ぬわ!どうしようホントどうしよう。あ、やべえあの子と目が合った!!どーすんの!どーすんの自分!?」

というタイプの人間が発するドロドロとしたエナジーを秘めたDT世界が破壊力を増すのは至極当然だと思いませんか?



また、「本を、ストーリーをたくさん読め」という親の言葉もあながちウソではなかった。

世界の可能性の蓄積が浅ければ、その思考の浅はかさ、もしくは現実で即効的に幸福を得ようとするDQNっぷりが発言に否応無く露呈してしまうのだ。

「コイツ、なんか間違ってるんじゃね・・・?」と。

















僕が2次元に強力に吸引されていったのはおそらく大学一年の半ばくらいだと思う。受験生時代、「大学生活はこの世のユートピア、天国、理想郷だ!!」と過剰に妄想力を働かせて過ごしていた(6年間男子校だったので不満は当然溜まり、妄想力トレーニングはかなり積まれていた)僕は当然の如く理想と現実のギャップにぶつかる。とりあえず家にこもり、RPGをやったり、アニメ、映画、大人用のDVDを借りてきたり、小説を乱読したりしていた。この時点で、無意識に現実逃避に溺れていたようであるwwww



「壁だ、壁だ、自分自身から生まれる壁が僕を包むよ安部公房先生・・・」





その日々は楽しくはあったが充実しているとは言いがたかった。

僕は2次元への接触を続けながらも、そこに没頭する自分に

「ニセの満足を得ても3次元では何も変わらないじゃないか、恥ずかしい・・・」という絶望の入り混じったツッコミを入れていたのだと思う。自分の自我を外部から観察するもう一人の自分が、クールにツッコミを入れたその瞬間、希望や幸福は冷めてしまうのだけど。

この段階で終われば、僕は2次元に没頭しつつ冷めたまま暮らすキモヲタとして現在に至っていたのかもしれない。







そんな当時、流行の兆しを見せていたニコニコ動画というサービスが僕の思考を予想外の方向に導いた。

「動画にコメント?何の意味があるんだよ一体・・・」





しかしそこには2次元という世界に没頭し、ツッコミを入れる自分達の姿を共有、観察することを楽しむという劇場のような空間が広がっていた。

物語にツッコミを入れて破壊、否定するのではなく、物語にツッコミを入れている自分達をまるごと楽しむという新しい遊び。

たとえば、元動画にアホな字幕をつけるうp主がいて、視聴者が「またこんな動画を見てしまった」と思いつつ「うはwww」とコメントする。そんなコメントを見て、また誰かがコイツアホじゃね?と思って「wwwwwww自重ww」とか入れる。その集積が次第に自虐と自意識のカオスの様相を呈していく。

そんな過程が魅力的でならなかった。





その時から2次元にハマる自分を冷笑する自分のいたたまれなさを、自虐して楽しむ快感が上回ったのだろう。僕の2次元熱は不思議と冷めないままだ。







そんな自意識の∞循環を繰り返して今の僕はいるのだと、今日買った本を読んで思いました。

これからどの方向に進んでいくのかはわからないけれど、なんでも吸収して妄想するトレーニングだけは怠らないようにしようと、そういう感じです。





最後に、冒頭の後輩の問いに答えると

「僕は、3次元の女の子が好きだ。大好きだ。それゆえに考え悩み妄想しまくりんぐエブリデイ。2次元はまた別方向の可能性、願望を秘めた一種のエンターテイメントとして好きなのであって、僕の本命はあくまで3次元だと。そしてニーソやフワモテのような観賞用だけが本命の要素ではない。断言する」

こんな感じ。

長々と失礼いたしました