12月31日にたまたま思ったこと
ここ最近、誘われるがままに、様々な忘年会に顔を出していました。正直疲れたけど・・・まあ、誘われるうちが華かなと思って。
ちなみに、野球サークルでお疲れ賞を貰いました。
商品はこけし型の電気マッサージ機でした。疲れが癒されます。
今日はといえば、一年を振り返ってみようかなと思ったりしたんだけど、怒涛の大掃除や買出しとかに忙殺されて、今紅白が流れている横でひっそり日記かいてます
親父は飲んでます、妹はどこかに出かけて、母親はさっき疲労困憊といった体で仕事から帰ってきた。
年の瀬はほんとうに慌しい。
後の祭りにならないうちに、今年を振り返っておきますか
考えれば考えるほどわからなくなるけれど、今とっさに振り返って思い浮かぶ、今年の自分の変化は、気持ちを言葉にする大切さをより感じるようになったことだろうか。
人は心を持っている。その表現の一つとして言葉がある。
今日の空気は透き通っていて、細い月が暗い夜空によく映える。
そんな風景を見ると、どんな人でも胸に何かが去来するのではないだろうか。
しかしそれを言葉にして反芻する機会というのは案外少ない。
月を見て心が動いても、それがどんな心の動きだったのか、何を連想したのか、自分がなぜそう思ったのか。
そういったことをよくかみ締める暇も無く、せかせかと時間ばかりが過ぎていってしまう。
野球に新聞に、バイトにゼミにと、精力的にいろいろな活動をするのは、当時は当然だと思っていたけれど、振り返れば忙しかったのかな、と思う。
そういった忙しさに溺れるのは気持ちよかった。
でも、そんな毎日に感情を埋没させてしまうのはなんだかちょっと、もったいないと思った。
いろいろな作品を読むことにした。どんな作品のシナリオでも、そこには作者という人間が伝えようとしているテーマがあって、そのテーマを心が飲み込めば、なにかしらの反応が起こる。そういったものを文章にして、残してみたりした。文字に起こしてみたりすると、僕の中で自分が何を考えているのか、そういったことが少しずつ整理されていった。
いろいろな場所に行って、いろいろなものを見て、体験することにした。作品は作品で、フィクションだ。フィクションには必ずリアルが反映されているが、リアルなものが持っている息遣いは、実際に触れて、感じないと知ることができない。
野球、新聞、バイトといった日常で、一つ一つのアクションの意味を考えるようにした。人と人が集まって何かをすることにおいて大切なことは、似通った点がいくつかある、と感じるようになった。
そうこう積み重ねていくうちに、自分が生きていく上での指針や、大げさにいえば「思想」が言葉になって固まっていったような気がする。
「書を捨てよ、街へ出よう」の中で、旅行中の寺山修司は宿の少年に
「昔のサムライは刀で人を殺したが、現代のヒーローは言葉で人を殺すのさ。みんな言葉を通してしか他人と接触できない世の中だからね」
と語る。そして首を傾げる少年を見て『この少年はまだ自分の思想を語る一人前の言葉を持っていないのだ』と評する。
中学、高校時代の僕は、何かを経験して、とても感動しても、それを的確に語る言葉を持っていなかった。今日のような月を見ても
「すげーよ、なんか、すげーんだよ・・・」
ってよく思っていたような気がする。
でも今は、当時よりは幾分、自分の考えや、思想、信念や価値観を言葉にすることができるようになった。
リーマン・ブラザーズの一件から一気に傾いていった世界経済。止まらない社会不安に、横行する派遣切り。悪化する景気。
就職活動も、売り手市場から一気に氷河期へと転回し、情報は氾濫し、翻弄される僕たち。
何を「信頼」して生きていけばいいのかわからない、混迷の時代がいよいよ訪れようとしている。
そんな時代だからこそ、まだ細くて脆くてもいい、自分の直感を積み重ねた信念を刀として携えて、信頼して強く生きていこうと、そんなことをふと、思った。
ゆく年くる年が始まった。スーパー涅槃タイムに入りますか。
ではみなさん、よいお年を!!