新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

ガンダム00、主義や理想が立つには、足元が固まっている必要がある

ガンダム00に関しては僕の中で神であるペテロニウスさんのブログでかなり掘り下げられているから、今更僕が何を書けるかというと本当に無力感にさいなまされるんだけど、書きたいから書く。ペテロニウス氏のエントリー↓



http://d.hatena.ne.jp/Gaius_Petronius/20081228/p1



力と力、主義と主義がぶつかり合って、より大きな力になり、それが世界の趨勢を決めていく・・・というマクロな流れが、現代でのこの世界でも基本的にはあるわけで、なんやかやいって全ては最大多数のための最大幸福を中心を軸に、回っているんだよね。

しかし、その末端にコミットしている「はずの」僕ら一市民にとっては、今夜の飯はなんだとか、飲み会行きたいとか、彼女欲しいとか、そういったミクロのレベルでの軸が世界の軸なわけだと思う。実際マクロなことを考えていては「日々を生活して、幸せになれない」可能性があるから。

この二つの要素は見えない糸で繋がっている。例えば日常の幸福とかも、マクロな軸が少しでも傾けば簡単に崩れてしまうわけで。まあ平和主義の日本ではそこまでの影響はないけど、アメリカだってテロで生活激変した人もいるだろうし、アフリカや中東では紛争の度にマクロによるミクロへの介入が行われているということになる。

まあまとめると、普段無意識に断ち切っているミクロとマクロの世界を繋ぐ糸に関して考えさせるのが、この作品のミソだと思うわけです。



大きく分けて刹那たちの成長、そしてサジとルイスの生き方の2つがそれを感じさせた。



刹那をはじめマイスターたちとソレスタルビーイングの存在の例。

刹那はマイニリティの中東に生まれた幼少期の彼の日常、平和が、マクロな大国の侵攻に壊されるから、それを守るために宗教「神」を信じてテロに走る。神の教えに従ってジハードすればきっと中東ハッピー。みたいなことを教え込まれて。



しかし終わりを知らないそういったテロの積み重ねと不幸の連鎖に気づき、そこから脱するために、マクロな規模での紛争根絶を夢見てソレスタルビーイング(CB)に加入する。だが、この時点で彼にとって「ガンダム」こそが紛争の無い世界を作るための媒体、すなわち少年時代信じていた宗教=神なわけで、思考自体は成長できていない。

要するに1期の彼はガンダム原理主義者のようなものというわけですね。ここに「俺がガンダム」の理由があるわけです。ガンダムに頼ればなんとかなる、いやむしろガンダムになりたい。的な。

その後1期で結果的に敗北、仲間を失うことになり、2期に入っても、世界は統一されていくものの幼少期の刹那のようなマイノリティが迫害され続ける構造は変わらない。

しかし、1期でガンダム原理主義が粉々になった以上、刹那が戦うために立ち上がるにあたってきちんとした動機はすでにない。言い換えると、なぜそうしたいのかという動機が彼ら自身のミクロな幸福と明確に結びついていなかったということが明らかになったということだ。1期終盤のサーシェスの「紛争根絶を掲げるテロリストさんよぉ!!」という叫びに対して正確に応えられるメンバーはいなかったということでもある。



それでも戦うことしかわからない刹那は立ち上がるわけだが、そんな戦いを続けていく中次第に、CBのマイスターたちはそれぞれの、戦う意味を変革させていく。

最初の「紛争根絶のため」というマクロな視点での志に加えて、ある者は恋人のために、仲間のために、そしてCB自体のために(よくCBは家族、っていうフレーズを聞くのはそういうのを意図させるためじゃないかと思う)っていう、ミクロ視点での心から守りたいもの(「愛」といいますか)が戦いの中で芽生えてきて、俺はこれのために戦う!!って言えるようになるんだよね。

刹那の場合は、宗教とかガンダムとか、そういったお仕着せのような借り物のシステムに頼って平和を手にしたい!という段階から、そんな自分に気づいたからこそ、自分を変革させて憎しみの連鎖の向こうを知りたい!!という自己実現的な段階に昇華し戦う意味を深める。

このようにただ「紛争根絶!!」と狂信的に息巻く1期のCBと違って、守りたいもの、目指すものの理由が明確な2期のCBはかなり共感できる、成長した組織になっているように見える。





またサジとルイスのカップルなんかもこの作品の根幹を作ってる関係だと思う。

1期前半でガンダム関係ないくらいのラブコメ状態だった二人が、テロに巻き込まれることがきっかけで引き裂かれることとなる。ノー天気ギャルだったルイスは、家族を失ってからはその復讐のために日常から決別し、マクロのためのマイノリティ・ミクロ切捨て機関である軍に志願する。

一方で、自分を一般人でマクロな世界的な問題とは無関係と思い込んでいたサジは誤解でアウシュビッツのような場所に入れられ、偶然CBから救出され行動を共にすることとなる。戦いに同行する中でわかったのは、知らない内に彼はマクロの笠の下で日常を営み、マイノリティを沈黙のうちに殺していたことに気づく。要するに二つの繋がりを実感してしまうわけだ。

そして戦場でマクロ一本筋のファシストとなったルイスと邂逅することとなったサジは、ルイスを救い、幸せに導くための、彼自身の戦いを始める。











社会とか共同体とかが大きくなって多様化して、一方で巨大な趨勢があって。そういう時代の中で翻弄されることになる僕らにとって、書物やメディアで聞くような綺麗ごと云々を抜き去った、心から主観的に肯定できる、個人的な現実の上にある立脚点っていうのはなかなか取得が困難だ。

その人の経験次第だから。

例えば、なんのために生きてるの??って聞かれて「家族を守るため」とか「恋人と一緒にいたいから」とかミクロ寄りで応えるのが普通の一般人だ。「世界平和のためです」とか「正義を守るためです」というのマクロ寄りの回答は人としては若干ずれていることになってしまう。1期のCBのように。



ここで「家族を守るため、私は世界平和のために戦う」という状態になっているのが2期のCBということだ。経験の上に経った、主義主張と自分のバックボーンにリンクが出来ている状態。これが大切だと思うわけですよ。



僕自身もFateを知って読み込んで、記事を書こうと思ってそういった立脚点について深く考えるようになったくらいで浅薄で矛盾したことを言ってるかもしれないんだけど(特に桜ルートのエントリー「誰か一人のための、正義に味方になる」http://blog.goo.ne.jp/kaijo_one/e/7cafd3a59cd85e1402baba013308614e)、これは本当に大事。そう信じたい。

本当にどちらかになりがちなんだよね。ミクロの毎日に埋もれるか、もしくはマクロに没頭してファシストになったり社会というシステムの歯車になったりで。

繋がりを知った上でのバランス感覚というかなんといいますか。



水島監督は、主義と大きな力の流れに翻弄されながら、自分たちの立脚点を見つけてそれに対してできるだけのことをやっていくCBの成長を通して、これを見る青少年に「お前ら、こんな時代で何がなんだかわからなくなると思うけどさ、本当に大切なものを自分で見つけろよ!!」というメッセージを届けようとしているのではないだろうか。