新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

但馬屋珈琲店



古めかしい扉を開けると、新宿の雑踏から一気に静謐な店内に足を踏み入れることになる。

遠慮がちに階段を上り二階席へと向かう。カウンターには誰も座っておらず、深津絵里に似た女性店員が飾らない仕草でカップを拭き上げている。



「いらっしゃいませ」



笑顔とともにむけられるもてなしの言葉が荒んだ心を撫でてくれる。



古びた椅子を引いてカウンター席に腰掛ける。改めて店内を見回す。

一つ一つ笠の違った電灯からは優しい琥珀色の光が差し、叙情的にカウンターを照らし出している。

奥の棚に大切そうに並べられたカップとソーサーたちは決して饒舌な雰囲気ではなく、店と共に歩んできた歴史を言葉少なげに物語っている。

年輪の刻まれたテーブルや椅子、カウンターはその落ち着いた色調からもわかるようになかなかの年代ものだが、古びている、とは感じられない。電灯の光を浴びて鈍く光るそれは新品の輝きとは違った落ち着いた魅力に溢れる。

さりげなく置かれた絵皿、オブジェ、一つ一つに店としてのこだわりを感じ、そういったものが作り出す空間に安心して身を委ねられると感じた。



店員がそっとメニューを差し出す。

初見の客としてはまず店の名を冠する「但馬屋ブレンド」を注文するのが筋かな、と思いオーダーを告げる。



店員さんは笑顔で頷き、一杯分の豆を挽き始める。静かだった店内にガリガリと音が響く。

そして、フィルターやポット、カップを棚から丁寧に取り出しセットして、店員さんは優しく珈琲を淹れて行く。自分も珈琲を出す店に勤めているにも関わらず、珈琲の正統な淹れ方を知らないことが恥ずかしくなると同時に、王道の美しさを感じた。



一杯の珈琲への期待が膨らんでいく。



静かにソーサーの上に乗せられたカップの中には、純粋な黒い珈琲が静かに揺れていた。

おそるおそる口にしてみる。

広がるクセのない苦味。そのあとに遅れてそっと訪れる味わい深い感覚。

ブラックコーヒーの特有の酸味はほとんどなく(酸味が嫌いというわけではないが)、非常に素直に飲める珈琲に、心がほころんでいく。

なかば放心しながら改めて店内を見回すと、店内の風景が違って目に映った。飲む前を、明かりをやや落として撮影された味のある写真とするならば、飲んだ後はキャンバスに水彩絵の具を滲ませて描いた絵に変わったようだった。



しばらく目をつぶって体を店内の空気に預けたり、ちびちびと珈琲を飲んでいるうちに、店を出なければいけない時間になった。

「御馳走様でした」

店員さんに告げて階下に降り、髭のマスターに会計を払う。

扉を開き、思い出横丁の界隈に出て、僕は再び都会の喧騒に戻った。