新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

サウスバウンド〜個人VS集団のジレンマ〜

ひょんなことから内定者飲みの幹事になったのだが、会ったこともない人たちの集まる飲み会をしきるのって予想以上に大変ですね。

ミクシィのオフ会とかやるの大変だろーなー

と思う今日このごろ。



奥田英朗「サウスバウンド」読了。

これも「読んでおいたほうがいい本」によく挙げられているというミーハーな理由だけで読み始めたものだが、なかなかの満足を得ることが出来た。



元過激派の父が起こす大騒動に翻弄されながらも、東京→沖縄への移住を通して家族の絆、息子二郎の成長していく過程を描いている。

単なる全共闘系の作品かと思いきや、そこを越えたテーマを大事にしつつ、子供の視点から読みやすく編み上げていたのが印象的。



文庫版は、二郎一家の東京の中野での生活を上巻、西表島での移住生活を下巻としている。

上巻では、誰からも本当の救済が施されることの無いいじめ問題に立ち向かっていく少年たちの様子と、父親がかくまった過激派の男との共同生活、そこから始まる事件についてが描かれる。

下巻では、西表島での自給自足の生活を夢見て父が移住を決めてから、移住先でのリゾート会社との立ち退き紛争についてが描かれている。





全体的に、個人の考えや価値観と、人が社会という集団を作るが故に避けられない様々な問題についての見解が、純粋な時代を終え社会の一端に触れ始める思春期の少年の視点から投げかけられている。







人は一人では生きていけない。これは自明の事実である。

思想家などが「人は所詮一人だ」などとのたまうケースはあれど、今日の三食の飯も、読む本も、パソコンも、一人で手に入れられるものは何一つとしてない。

よって人は群れ、社会を作る。だがその第一義は程度がどうであれ「生きるため、私腹を肥やすため」である。





時に個人は属している会社などの組織の中で私腹を肥やそうとする。



あるいは、組織の中で美しい自己犠牲を図っているように見える個人も、その組織が「国や業界の中で私腹を肥やそう」という目的に加担しているに過ぎない。



そして更に話が大きくなって、どんなに国際貢献をしているように見える国家も、その目的は「自分の国が経済的な得をできるようにする、もしくは戦争の火の粉を避けるため」である。

誰かの幸せを奪って自分が得をするゼロサムゲームが世界中様々な規模で行われている。





ここから外れるには「全ての人のことを平等に考え、愛する」精神が実践されなくてはならない。作中で語られる西表島の人々はそれを実践している。島のものはみんなの共有財産、全ての仕事や生きる行為を助け合う。そういった共存共栄が実現されているといえる。

ただこれは価値観の近い人が集う小さな島規模、村規模だからこそ成立しているわけで、様々な背景を持つ人々が集い、都市化している状態の中では、様々な利害が発生せざるを得ない。個人の持つ多様性が故に様々な有形、無形の財産を平等に扱えないからである。



更に視野を拡大して世界中の人々にこれを適応しようとすればますます無理である。東南アジア国の熱帯雨林は現地の人から見れば命に等しい財産かもしれないがアメリカの資本家にとっては経済発展の犠牲になっても差し支えない存在であるケースは十分にありうるのだ。

作中の、西表島の信仰対象である森の「御嶽」もリゾート開発のために取り壊されることとなる。







よって暴力的な装置として政治、経済が生まれ、その中で平等な競争のもと(実際平等とは思えないが)様々な実力、権力によって移動することになる。

これが「仕方の無い、生きていくための事実」としてある程度容認していくことが多かれ少なかれ「世間的に大人になる」ということではないかと思う。





しかし、私腹を肥やすばかりの大小さまざまな存在は今まで数々の過ちを犯してきた。

毎日のように新聞やTVを賑わす個人、法人の不祥事のニュース、金融危機を引き起こしてきたリーマンショックに至る投資銀行の失敗、日本の四大公害事件、地球温暖化をもたらした様々な要因、児童労働等の社会問題。

今語ってきたことだけが理由ではないだろうが、関わっていることは確かだと思う。



こういった問題は時に大きな視点から矯正されなくてはならない。それは時に革命家であり、市民運動であり、国連のような国際レジームであったりする。

それぞれの私腹を肥やしているが故に、時に虐げられる状態を無視される人や自然などの存在。

そういったものを救済するためには、様々な社会的枠組みを越えた発想が必要だ。それを実践しようとするのが作中の二郎の父、上原二郎だ。

搾取構造の破壊を目指して学生運動に参加し、英雄的存在だった彼は、セクト内での内ゲバなどに遭遇することで集団の限界に絶望、アナーキストに転向する。

しかし東京で生活する以上集団、社会との接触は避けられないと考え、西表島での自給自足の生活を目指して移住する。

しかし、そこでも内地からのリゾート開発との戦いが待つ。



私腹を肥やすシステムに頼らずに生きられる場所を探すことが父の目的であり、その場所が彼の楽園である。

リゾート会社との戦いの末父は、かつて重い人頭税に耐えかねた八重山の人たちが逃げ出して、地図に載ることを今もこばみ続けている島「パイパティローマ」を探すといって子供たちを島に残していってしまう。

結果的には逃避になってしまった。

システムを破壊して再生を促す。コードギアスルルーシュ的な発想だが、ルルーシュの辿った末路と同様、それはハッピーエンドではなかった。







僕はスザク的な、今自分のいる場所を楽園にする戦いのほうが性に合っていると思う。

というまとまりのない感想文でした。







最後に印象に残った部分を。

217p

「二郎。世の中にはな、最後まで抵抗することで徐々に変わっていくことがあるんだ。奴隷制度や公民権運動がそうだ。平等は心優しい権力者が与えたものではない。人民が戦って勝ち得たものだ。誰かが戦わない限り、社会は変わらない。おとうさんはその一人だ。わかるな。」





254p

「洋子、そんな顔をしないで。お父さんとお母さんは、人間としては何一つ間違ったことはしていないんだから」

母が船から岸に上がり、姉の前に膝をついて言った。

「人の物を盗まない、騙さない、嫉妬しない、威張らない、悪に加担しない、そういうの、全て守ってきたつもり。唯一常識から外れたことがあるとしたら、それは、世間と合わせなかったってことだけでしょ」

「それが一番大きなことなんじゃないの」

「ううん。世間なんて小さいの。世間は歴史も作らないし、人も救わない。正義でもないし、基準でもない。世間なんて戦わない人を慰めるだけのものなのよ」