みちのく祭り紀行
ご無沙汰しているうちに8月も終わらんとしてますね。旅行のことを、記憶がうやむやにならないうちに書き残してみんとす。
8月4日 深夜
新宿をムーンライト越後に乗って出発。2年時に辿った道を再び。今回は相棒Y田とポケモンを取り出し、没頭。
8月5日 早朝
確か、新潟県村上に着く。そのまま山形県酒田へ。Y田はムーンライト越後内で眠れなかったらしくつらそうな表情をしていた。
たしか朝八時半くらいに酒田に到着。街は閑散としており、以前入った、唯一開店している駅前のそば屋に入店。わびしくそばをすする。
しばらくして電車に乗り12時くらいに秋田へ。乗りつぎに一時間半だか二時間要したため駅付近を散策。偶然にも竿燈祭りという祭りがやっていることを知る。
広場で10メートルはあろう提灯つきの竿を片手で操る男たちを眺める。
夜に見たらなかなか圧巻であろう。
物産館でなまはげのきぐるみを着た人と記念撮影しつつ、こっそりDSを充電・・・していたら危うく次の電車を逃しそうになった。
以前は駅前の広場で卑猥な雪像を作ったものだが、同じ愚を犯さずに済み、幸いであった。
その後はひたすら電車に乗り続け、大館を過ぎ、弘前を過ぎ、青森に一気に入る。正直へとへとで、安息の地を求めて宿探しを始める。
がどこもねぶたシーズンということもあり満室。場末の安宿も覗いてみるも犬にほえられた挙句満室と、ことごとく憂き目を見ることとなった。
半ば覚悟していた状況ではあったが、約24時間で東京から青森まで鈍行で移動したことによる疲労は予想以上であり、東京で楽観的に宿をとらないまま飛び出した自分を悔いた。
そんなこんなしているうちに日は落ち、街は跳人の衣装を着た男女で溢れ始める。
ねぶたが出るまで時間がありそうだったので偶然青森で見つけた半兵ヱ(なぜかあった!!)で腹ごしらえ。
しばしマターリするも、店員さんの「今日盛り上がってますよ」との勧めもあり重い腰を上げると、
「らっせーら〜らっせ〜ら!!」
「らっせらっせーらっせーら!」
ねぶたが荒々しく走り回り、そのあとをトランス状態になった跳人衆が練り歩く。
夜の闇に映える原色のねぶたと人々の熱気は、比較的ひやりとした東北の夜をほてらせていた。
僕がねぶた祭りから感じたのは、街と人との一体感だった。多くの祭りはイベントであり、やる側と見る側の人間には壁がある。
しかしねぶたの場合は街全体が祭りと密接に絡み合い、心から祭りを楽しもうという気概が感じられ、半ば儀式のように思われた。短い夏を楽しもうという気持ちの表れなのか、こういった根源的な盛り上がりを伴った祭りを未経験だった僕は少なからず感銘を受けた。
夜9時過ぎにもなるとねぶたが終了。すると水が引いたかのように人々が消えていく。理由は簡単、車移動だからである。駐車場はいくらでもあり、そこから大型バスなりワゴンでの大移動が始まる。
宿が無くカラオケを探して奔走する僕らを尻目に車たちは颯爽と大通りを抜けていった。
一方当初探していたカラオケをどうしても探せず、ねぶたで盛り上がっていた繁華街へ引き返したときにはすでに人は少なくなっており、リアルな「祭りの後」を感じることとなる。
結局それからしばしカラオケを探しさまよい、やっと見つけたカラオケに入り、壊れたように歌い、そして眠った。
8月6日 朝五時、カラオケを放逐された貧乏人たちは吉野家で朝食をとり青森の湾岸公園をしばしさまよった後恐山を目指す。
最北の路線下北線を使い下北まで(下北には駅前にGEOがあった。しかし半径1キロ以内におそらくGEOしかなかった)。そこからバス「恐山線」に乗って恐山へ。
半ば観光バスと化したこのバスは、停留所が一つ過ぎるたびに恐山の言われを語ったり民謡が流れたり、賽の河原の話をしだしたりとなかなかおどろおどろしかった。
昼前に恐山に。
宇曽利湖を中心とした一帯は澄んだ湖や美しい浜をはじめ、天国のような光景が広がっていたが、恐山霊場内は火山だけありごつごつとした岩場から硫黄臭が立ち込める地獄の様相を呈していた。
中でもところどころに賽の河原のように詰まれた平たい石や、名前を書いた幾千もの供養用の小さい仏さま、そして静かに回るピンクの風車が、霊場の空気を独特のものとしていた。
信仰とは信じることで心を安らかにするためにある。失った魂に会えると言われるこの場所が、かけがえのない人を失った数多くの人々の心の拠り所となっているからこそ、霊場には重みがある。
霊場を霊場たらしめているのは、亡くなった方の霊の存在もあるかもしれないが、生き残った人たちの捧げる哀悼の念や慟哭も大きな要因なのではないだろうか。
ちなみに恐山にはタダで入れる温泉があった。
前日汗だくで青森と這いずり回った僕たちはひとまず浮遊物の多い温泉に浸かった。
門前でそばを食い、みやげ物を買って一時過ぎくらいに下山。下北線が来るまでに一時間ほどあったが乗り継ぎに関しては鈍感になっていたため黙ってポケモンにいそしむ。
その後は野辺地で一時間乗り継ぎにかかった以外は比較的スムーズに移動ができ、八戸から盛岡まで移動することができた。
盛岡で降りた僕たちは街の栄え方に感動した。
青森は店が全くないわけではないが、とにかく間隔がでかかった。それに比べて飲食店やホテルが密接している盛岡は少なからず街の匂いを久々に感じさせる場所であり、僕らは二つある東横インの値段を吟味しつつチェックイン、その部屋の美しさにむせび泣いた。
リュックを下ろした背中は羽根が生えたようで、手ぶらで夜食のじゃじゃ麺を食べに行くのは非常に愉快だった。
じゃじゃ麺は味噌味のうどんといった風情で、なかなかうまかった。
8月7日
翌朝、東横インでぎりぎりの朝食を取りしばし盛岡を逍遥。
特に何もない市内もそれまで秘境を旅していた僕たちにはなぜか新鮮で、必要以上に長居をした後に冷麺を食す。とにかくキムチがきつかった。
昼過ぎ、平泉へと移動を開始。
三時半くらいに到着。
雨が降り始めているもレンタサイクルに挑戦。
オッサンに「やめといたほうがいいよ」と言われたが、押したらカッパを貸してくれた上、丁寧に案内してくれた。旅先の優しさ、プライスレス。
最初に寄ったのは義経堂、義経最期の地ということでお堂がある。資料館には生前の義経を巡る人々に関する愛に溢れた説明があり、傍らには芭蕉の有名な「夏草や兵どもが夢の跡」という句碑があった。
次に中尊寺へ。奥行きのある寺で、弁慶を祭るお堂や薬師堂、金堂etcと、金色堂にたどり着くまでには時間を要した。
肝心の金色堂は写真撮影禁止だったが、覆い堂の中に入った途端声が漏れてしまうほどのきらびやかさであった。
仏の台座に藤原の首やら遺体が入っているというのが半ば不気味だった。
また装飾具に象牙が使われており、平安時代にこんな山奥にシルクロードの品を取り寄せる藤原氏の財力が伺えた。
中尊寺に予想外に時間を食い、毛越寺に。僕の思い違いでミイラのある寺と思っていたら、庭園の有名な庭だった。急かしたY田には悪いことをしたが、遺り水という遺跡を見てくだらない盛り上がり方をしたのはしょうもない思い出の一つとなった。
結局20分近くレンタル時間をオーバーしたのだがオッサンはまったく延長料金を取らず、平泉よかったか?と送り出してくれた。
うん、よかったよ、オッサンの優しさが。
その後は仙台へ南下。途中松島によろうか考えたものの、すでに日が落ちていたため通過。そのまま仙台へ。
下車して絶句。
超都会。
駅や商店街をやたらぶらさがる七夕祭りの飾りよりも、その栄え方自体が軽くショック。さすが杜の都。雨に打たれながら吉野家で夕飯食べて唯一東京デル前にとった安宿で、Y田と同じベッドで寝るもほぼポケモンでオール。
8月8日
もそもそと朝食を取りとりあえず、徒歩20分ほどの青葉城を目指すも、城内が超胸突き坂。とりあえず伊達公の像と対面して仙台的な記録を残すもそれ以外には特に見所なし。敢えていうなら城内の神社の絵馬コーナーが戦国好きの腐女子才能の無駄遣い落書き絵馬だらけになっていたことにショックを受けたくらい。
聖地巡礼ってやつですか
城から市街へ降りて、もう一つの目的、楽天の本拠地クリネックススタジアムへ。
球場までの道が楽天尽くしで、愛されてる感を感じたが如何せんもと市民球場、かなり素朴な球場だったww
でも周囲の演出はなかなかのもの。Y田が腹を壊しつつもサイン待ちをしようとするが、時間的に諦める。
仙台駅の牛タン通りで牛タン定食を食す。
前回食った時より疲労がないからか抜群にうまかった。前回嗅覚を失っていたY田もうまそうに食っていた。
そして6時間かけて福島、栃木を貫通しつつ南下。
微妙に最期乗り換えをミスって上野に漂着も、乗り換え事故の規模としては小さいもので、ものともせず新宿に到着、大戸屋で飯を食らって旅をしめたのであった。
その他、中学の合宿編、親父と祖先のルーツを辿るたびに出る編があるのだが、明日からまさとと立山を越える編に発つので今夜はこれで。ばいちゃ。