新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

吉祥寺のLOFTの文具売り場に行ったら来年度の手帳が猛プッシュされていた。



就活に追いまくられているころにしきりに目にした「2010」という数字を見て、季節はずれになりつつあるサンダルを履いて衝撃を受けている僕に構わず、もう次の年の足音は聞こえてくる。

さて、長かったこの夏休みはいろいろなところに旅に出た。海外に行ったわけでも大散財したわけでもないが、それなりの充足感があるのは確かである。同じように旅に明け暮れた人もいるのではないだろうか。





8月の頭、東北の祭りを巡る旅をした際、いたるところで松尾芭蕉の歌碑を見た。

特に平泉の義経堂で見た「夏草や兵どもが夢の跡」の歌碑は印象的だった。

京の鞍馬寺で育ち、本州の西の果てまで戦い抜いた英雄の最期の地で、決死の覚悟で諸国を巡る芭蕉は何を思ったのか、と感慨に耽ってしまった。







現代の旅は芭蕉のように決死の覚悟で行くものではない。楽しい思い出を残すものという考えが一般的に普及している。

しかし様々な日常の些事に追われる現在の旅というものは、一種のわずらわしさを孕む場合があるというのもまた事実である。

どこへ行こう、何を見よう、どうやって行こう、誰と行こう・・・そんなことを考えているうちに脳内で計画が頓挫してしまうこともよくある。



それでも旅という行為には不思議な魅力があり、僕らは時に衝動的にでも旅に出ずにはいられない。「寂しさをまぎらわせたい」と思って旅に出る人もいれば「何か楽しいことがあるかもしれない」と期待して旅に出る人もいるだろう。

僕の場合は「自分と明確に違う存在」を求めて旅に出る。とはいえそんな偉そうなことを思い立って家のドアを開けるわけではない。振り返ると、そんな感じかなあと、その程度の感覚だ。







そもそも旅に出て何が楽しいのかといえば普段毎日目にして飽き飽きしている「日常」から抜け出して「非日常」に触れ合うことが出来るからと言うところに尽きる。

だからこそ旅に出れば、どんなに安くても普段口にしてるカップ麺やカロリーメイトばかり喰らい、無個性な街の中でぽつねんとしているわけには行かない。

海の近くなら海の幸を、山の中なら山の幸、川の幸を。多少値段が張ろうともその地でしか味わえない物にこだわり、その地でしか見られないものを見るのが定石だ。



そして僕の中では「非日常との接触」という旅の醍醐味はさらに二つに分けられる。

一つ目が「自然との邂逅」、二つ目が「ヒトとの接触」だ。







一つ目、「自然との邂逅」と銘打ってみたものの、言うならば「山のデカさガチでパねえ!」「海の広さパねえ!」というところから発する内省だ。



詳しくはないがいつしか、

「日常の安全な都市的社会空間の中では、自分と他人との境界線は曖昧になり、自分がわからなくなってしまう。人間は脅威となりうる事象が起こりうる自然の中でこそ、自分とそれ以外の異質なものに境界線を引くことが出き、自分の存在に明確に向き合うことができる」

的なことを言った人がいたようないなかったような。僕が感じるのはそれと似た感覚である。



例えば、人里離れた森の中で日が暮れ、名も知らぬ鳥の鳴き声や野犬の遠吠えが聞こえれば、自然と自分の間に明確な境界線が引かれる。「自分VS自然」である。僕の場合、牙も爪も持たない自分のショボさを感じると同時に「こんな無力な自分とはなんぞや??」という自己分析が始まる。

また、水平線の広がる快晴の海を前にしても、雄大さや美しさを感じた後には、自分自身の小ささと、そこから始まる自然と人間の関係に思いを馳せてしまう。



普段人間の海の中で埋没している自分を自然に放り込むことで、自分の存在を明確に感じ、洗いなおすことができる。これが個人的に感じる自然との出会いの醍醐味だ。







二つ目「ヒトとの接触」としてみたが、これは旅先で出逢ったお年頃のナオンとよろしい関係になって股間のダミープラグが裏コード「THE BEAST」!!とかそういう意味では断じてないことを表明しなくてはならない。

ここでいう「ヒト」とは時系列を無視した人間の意思や価値観との出会いのことだ。

寺社仏閣や名所旧跡を訪れると、時に何百年も連綿と受け継がれてきた人間の営みというものを目にすることがある。

時にそれは建築に秘められたその土地に住む人の力強さであったり、宗教的教義の中の一つの言葉が表す悟りにも似た世界だったり、工芸品に宿った匠の魂だったり、その土地固有の生活習慣だったりする。



旅先という異質な空間にあってもヒトの思いは基本的に根底でリンクしている。だからこそ時に自分の日常の中の悩みや憂いが、旅先で出会った価値観と化学反応を起こし、パッと開ける瞬間がある。

そういった未知との出会いが自分の心をグッと内側から押し広げてくれるような気がする。











久々に長々と書いてみたが、こうやって書いてみると、旅という行為においてどこにいったか、何を見たかというスケールの大きさはさほど関係ない気がしてきた。

普段降りない駅前を散歩してみても、そこから何かを感じられればそれは十分に旅と言えるのだろう。

肝心なのは自分から自由に一歩踏み出し、何かを感じることだ。







かつて上智新聞に居た時に取材した、J-WAVEナビゲータのロバート・ハリスはこう言っていた。

「息の詰まるような日常からドロップアウトすれば自分らしく生きられるわけでもない。ヒッピーのような生活をしてハシシを吸ったり、世界中を巡って見られるものを全て見ればそれで自由が得られるわけでもない。大切なのはまず一歩踏み出すこと、そして、『自分』とは何なのかをいつも考え続けることだ」

すべての旅は自分へとつながっているとはよく言ったものだ。