寄席
今日は新宿の末廣亭で、上智新聞の友人と人生初寄席を見てきた。
以前からオヤジに勧められてはいたけれど、正直これほど面白いとは思わなかったw落語を中心として、ものまね、コント、漫才、奇術など様々な演芸があるのだけれど、それぞれTVのお笑いとは違った質の笑いが楽しめる。
俗曲の玉川スミ(御歳90!芸歴85年というおばあさんだったが、戦前の話を交えた風刺や観客を交えた痛烈なユーモアセンスに圧倒された)
物まねの江戸屋まねき猫(枕草子を交えた動物物まね)、
笑福亭鶴光(徳川八代将軍が決まる際の御三家のひと悶着を題材にした落語)、
桂歌丸(健康の話から、夫婦の仲をネタにした落語)
など、昼の部の途中からでも十二分に楽しむことができた。
よくTVで見られるお笑いと何が違うのか考えてみた。
ひとつ目としては、芸のクオリティが多様性に満ちていること。
たとえばTVで放映するお笑い番組の場合は、TVのチャンネルをつけるであろうすべての視聴者が笑えるような、最大公約数的な笑いが求められる。
畢竟、ネタも有名なものや、無難なものに絞られてくるのが筋というものである。
一方演芸場のお笑いは、そのような制約に縛られない。「演芸場でしか見られない」スペシャリティに満ちた笑いを求めている客に、芸の真髄を見せればよいのである。
ある者は日ごろの修行の成果を生かした古典落語を当世の風刺を交えながら披露したり、自分にしかできない新しい芸、日々の鍛錬の末編み出される芸をしたり、またある者は高齢の客層に受けのいい昭和の思い出を交えたネタを披露したり。
基本的に夫婦ネタ、芸能ネタ、政治ネタなどが多く綾小路きみまろのお笑いのルーツなのかなと感じさせられた。
ふたつ目としては、舞台というライブ空間であること。
演劇でもそうなのだけれど、そこには第三者による記録という概念がなく、言ったことはその場で消化されて消えていく。
だからこそのパフォーマンスができる。
政治ネタなどシビアなネタでも、録画されてそれをダシにあげ足をとられるというようなこともない。
その点では落語家というアーティストの表現の自由が最大限に保障された空間が演芸場であり、最高の舞台といえるのではなかろうか。
下ネタの乱発はどうかと思ったがw
おっぱいって言えば笑いがとれるだろみたいなw
最後に印象に残った歌丸さんの言葉を。
「近頃の男女には辛抱の棒、話し合いの愛が足りないのではありませんか。他人の男女が共に歩むのだから性格の相違は当たり前。それをすり合わせていく努力が愛情に変わっていくのではないかと思います」
また行ってみたいものである。