新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

愛のむきだし〜園子温監督が切り開いたジャックナイフの先端〜

相変わらず夏ですね。
どうも僕です。

ここ1ヶ月くらい園子温監督の作品をなぜか集中的に見ておりまして「恋の罪」「冷たい熱帯魚」を見てきており、なぜかその引力に引き寄せられっぱなしなのでつい今日も「愛のむきだし」を借りてきてしまった。

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その上映時間237分。疾走感はありこそすれ長さは感じなかった。(ネタバレ有)
「こうあるべきだ」「こうあらなくてはならない」という主観は全てほぐした上で見たほうがいい作品。

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〜あらすじ(wikiより)
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E6%84%9B%E3%81%AE%E3%82%80%E3%81%8D%E3%81%A0%E3%81%97

【エンタメ要素の多さ】
見てきた「冷たい熱帯魚」「恋の罪」シリアスな物事が淡々と積み重ねられることが多いのだが、この作品はギャグやギミックが多く盛り込まれている。
特に上巻は静止画がサマになるシーンが多い。ジャケットの3枚画はいわずもがな、ユウの初めての勃起シーン、ヨーコにマリアを重ねるシーンなどコミカル、かつアップを多様している。
背徳的な神父、機関銃、新興宗教、血しぶき、性的虐待、暴力、ストーカー・・・要素としてはお腹一杯。
監督が伝えたかったメッセージを伝えるためにこういった見せ方、素材の選び方をしたととらえるか、
4時間の尺を見せるための演出として意図的にタブー全部盛りにして観客におもねっていると邪推するかは自由である。


【「家族」に壊される子供たち】
登場人物の主軸となる三人はいずれも両親からの愛を注がれなかったことへの反動が自らの行動動機になっている。父から原罪を懺悔させられる日々の末、原罪作り自体が目的となり盗撮を繰り返し、その果てに自らの女神ヨーコを発見するユウ。そのヨーコもコイケに奪われ・・・
授業中にイチャつくヨーコとコイケを見ているうちに立ち上がって太宰治の津軽を音読するシーンに母性への渇望がこめられている様に感じ特に印象的だった。

家族に対して強い忌避感覚をあらわにしするヨーコ。
「見えない弾は、いつもどこにいても飛んでいる。それに当たって死ぬなんて、誰も信じていない。でもその見えない弾は、無数にこの平和な街に放たれ、どこにでも飛んでいる。それが見える人には、殺人も事故死も唐突ではない」
与えられる苦痛の末自暴自棄になり、人生に対し達観し、父への憎悪から始まる男性嫌悪にまみれているヨーコだがその心はよりどころを探している。
奔放で、男性への嫌悪を持つと同時に奔放な母と共に生きるが、その母がユウの父親のもとへ走り兄妹となることに。

愛欲を禁じるあまり、女の体を持つというのみの理由で父からの虐待を受けるコイケ。セックスを迫られたことから男子を刺し少年院へ入った上、倒れた父のペニスを切断。さまよううちに引き込まれた新興宗教で幹部へのし上がるコイケ。決して家族で受けることのできなかった「愛」を宗教団体へ見出し徹底した団体への献身へ徹するが、ある日同様に原罪へ苦悩するユウと出会い、ユウを自らの教団へ引きずり込もうと画策する。ユウがヨーコへ見せる信仰に近い愛を見抜いたコイケはユウ一家の心のスキマへ入り込みヨーコを教団へ引き込む。

この3名を軸に物語は進行していく。「家庭とは美しい」「愛し合っているものである」というのが世間の一般論であり、理想の形としてドラマや映画に描かれる。
一方で、家族は個人の集合体であり、個人には愛や善意とともに憎しみや欲望、時には変態性が秘められている。時として個人は、自らの欲望を完遂するために家族や社会といった枠をぶちぬかなくては救われることが無いのだということをまざまざと見せ付けてくれる。

【「むきだし」にすることで救済される個】
精神的な愛、崇高な愛、清廉な愛、そう描かれる愛の姿がある。この映画はそういった愛へのアンチテーゼとして、愛は思いや高ぶりをむき出しにすることではないかと問いかけてくる。
教団にヨーコを引き込まれた日からユウは彼女を救うため苦闘する。教団に染まりつつあるヨーコをユウが連れ出し、 浜辺で砂まみれになりながらヨーコが新約聖書/コリント人への手紙/13章を滔々とユウへぶつけるシーンは圧巻である。

■■
「たといわたしが、人々の言葉や御使たちの言葉を語っても、
もし愛がなければ、わたしは、やかましい鐘や騒がしい鐃鉢と同じである。

たといまた、わたしに預言をする力があり、 あらゆる奥義とあらゆる知識とに通じていても、
また、山を移すほどの強い信仰があっても、 もし愛がなければ、わたしは無に等しい。

(中略)

わたしたちが幼子であった時には、幼子らしく語り、幼子らしく感じ、
また、幼な子らしく考えていた。 しかし、おとなとなった今は、幼な子らしいことを捨ててしまった。

わたしたちは、今は、鏡に映して見るようにおぼろげに見ている。
しかしその時には、顔と顔とを合わせて、見るであろう。

わたしの知るところは、今は一部分にすぎない。
しかしその時には、わたしが完全に知られるように、完全に知るであろう。

このように、いつまでも存続するものは、
信仰と希望と愛と、この三つである。
このうちで最も大いなるものは、"愛"である。」
■■
狂気にも似た愛への渇望と教団へ愛を見出したことへの妄信を体現する満島ひかりに釘付けとなる瞬間である。
一方でユウも思いをぶつける。ヨーコが自章で眺める安保闘争よろしく、教化された者を想起させるヨーコにユウも反抗する。しかし奮闘空しくコイケたちに再びヨーコを奪われ、自らも入信した上で面従腹背を続け救出の機会を探る。

ヨーコへの愛が「勃起」として体に出ていたユウだが教団で勃起を禁じられながらヨーコを思ううち、勃起を恥じる、愛を恥じることを恐れないと決意(そして勃起も克服)教団本部へ武装して乗り込む。

血しぶきを上げながらヨーコの元へたどり着くが、救うはずのヨーコに首を絞められ、血の涙を流しながら愛を叫ぶユウ。母の形見のマリア像をコイケが破壊したことで最後の力を振り絞り立ち上がるが、発狂してしまう。
愛を行動動機とするユウが発狂した様子を見たコイケは自害、教団も崩壊する。
自分の愛欲を原罪と教えられ続け発狂したコイケだったが、原罪を行動動機としていたユウを自らの物にしたかったのだろう(と言いつつコイケを抱こうとしたら刺していたかもしれないが)。ユウはコイケが張り巡らせた策略や誘惑に最期まで従うことは無く、ヨーコへの思いを持ち続けたまま拒絶され発狂した。
コイケの自害動機は正直なところわからないが、性欲に見境の無い「他の男と何かが違う」と信じていたユウが自分と同じ発狂サイドへ堕ちたことに対する現実への諦めか。いずれにせよ安藤サクラの怪演は筆舌に尽くしがたいものがある。

正気を取り戻したヨーコは精神病院に収容されたユウを訪ね・・・

【所感。胸をかきむしられた。】
この映画を見て興奮を覚える人は、自分の気持ちや愛とか欲望をうちに秘めるタイプの人や倒錯した思いを通して強く愛を感じる人が多いのではないだろうか。
自分はおそらく傾向としてそちらサイドにあるので
抑えている破壊衝動や、世「こうあるべき」と議論されている愛や家族への強い違和感、自分がそう感じることへのコンプレックスといったものに園子温監督のナイフをつきたてられて血しぶきをあげられる、そんな心地になった。

すでにむき出しにできて、そこで自分の欲望を自己実現できている人は、それが体現されているアクションやコメディシーン、また愛をぶつけるシーンに素直にふりまわされて楽しめるはず。

この作品については賛否両論あるようだが、「憎まれっ子世にはばかる」というように何か物申したくなる映画というのはそれだけにインパクトが強い証拠でもある。
引き続き園子温監督の作品を見ていきたいと思う。

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