新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

ぼっち飯は忌避される行為か

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ちなみに今日の晩御飯はリンガーハットでした。

どうも僕です。

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 僕は休みの日や、ポッと約束がなくなって急に時間が空いた時などは衝動的に食べたくなる店へ行ったり、HUBだのへ一人でぶらぶら入っていくことが多いのだが、そういった出来事をポロリと友人の前でまろびだしてしまった場合は概して

 

 

「かわいそうを通り越して気持ち悪い」

 

 

「いや、そんなグルメ通っぽいアピール聞いてないし」

 

 

「ぼっち飯が許されるのは小学生までだよね~」

 

 

「お尻割れてるんじゃないの?」

 

と大衆の面前にて口頭陵辱していただくパターンが日常茶飯事である。

しかし。だがしかし。

一人で飯を食うことは忌避される行為なのだろうか?

 

否。ぼっち飯にはぼっち飯の醍醐味があるはずだ。

 

食材のみと真に向き合うにはぼっちのほうが向いている

もちろん旨いものはどんなシチュエーションにあっても旨いはずだ。ただその食べ物を口にしたとき、

 

「後味を引くこの出汁には何が使われているのだろうか?」

 

「この味は今まで味わった何に似ているだろうか?」

 

「これにはどんな酒が合うだろうか?」

 

食べ物が作られるまでの工程や作った人へ思いを馳せる自由がぼっち飯にはある。

その食物の言われや産地についてその場で調べてもいいだろう。

しかし目の前に友人や、もしも恋人がいたならばその美味しさを相手と共有すること、もしくは彼らとの会話のほうへ気が向くことだろう。というか向けないと失礼である。

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人と一緒に食べる飯は、その人といる時間を食らっているのだろう

人と一緒に何かを食べに行ったときに最初に思い出すことは何だろう?その料理もそうだがやはり一緒に行った人のことを大抵思い出すのではないだろうか。

その店や料理はあくまでその相手とのストーリーの一幕、アクセサリに過ぎない。

高校時代部活帰りに行ったラーメン屋、大学時代背伸びしてデートに使ったディナー、社会人になって仕事の山を越えたときに先輩と行った飲み屋・・・

誰かと一緒に飯を食うということは、相手が時間を自分のために割くことを承認してくれるということであり、その承認の快感が心に染み渡り、滋味として記憶されるのだろう。

よって僕は両方好きである(そして財布は薄く、ただ薄くなるのである。)

これって一人旅にも似てるよね

どこか違う場所を散歩したり旅行する際もその場所のみをエゴイスティックに堪能するのか、それともその人たちとの時間を楽しむのかという感じな気がする。

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ただ単に同調していないとうしろめたくなるようなことがないよう、みんなが一人を適切に楽しめるようになれればいいのにね。

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