大叔母が亡くなった
そうである。御年90は超えているであろう。
僕自身、記憶のある範疇で彼女にあったのは大学の時だから、8年以上前になる。その時は彼女はしゃんとしていて、僕や父に激を飛ばすほどに元気だった。
ひとつ感じるのは人と触れ合う時間の貴重さである。
ざっくりとした記憶だが、実家をでて一人暮らしをした場合、親と触れ合う時間はそれまでの人生の何十分の一になるという。
肉親でもそうなのだから、どんなに大切な友達でも、たまの親戚でも。旧交を温められないうちに時間が思い出を錆びつかせるだろう。
人間は一人で生まれ一人で死んでいく。ただ、目の前に来ては過ぎゆく人を愛さずにはいられないし、それが人の生きる喜びのはずだ。
また、死にゆく人にとっても、唯一残せるのは自分の知人の誰かの記憶に残ることかもしれない。
ワンピースのチョッパーが仲間になるあたりで、ドクターヒルルクが、「人が本当に死ぬのは、みんなの記憶から消えることだ」とかなんとか言っていた。
まさにそのとおりで、3世代遡れば目の前に残るはただの墓石。
よほどの英雄でもなければ生前を知る者はないのである。
いろいろと踏まえると、誰かが亡くなった、という話を聞いたとき、それを本当に悼むことができる行為は、その人の思い出を新たにすること、そして繋いでくれる人につなぐこと。そう思うのでした。
思いまとまらず。合掌