新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

インドで僕も考えた〜3月19日、バラナシのガンジスのほとりで〜

夜中にトイレで5回ほど目覚めた僕はK松と共に6時にゲストハウスの屋上に上った。
なんだかんだ行って昨日の夜行軍で母なるガンジス河を見ていなかった僕にとって初対面。



朝日が川面に映え、あちこちから祈りの声が上がる光景は熱で頭が重くなった状態ながらも圧倒的な美しさだった。

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そしてその美しさに心打たれたショックで肛門が刺激されそのままトイレへ直行。
そのまま午後までトイレとベッドを往復する生活が続いた。

午後、近くの界隈を散歩してきたみんなと近くのレストランへ。野菜中華丼とラッシーで食事を済ませ宿のベッドへトンボ帰り。

(ゲストハウスの主人に「下痢中は野菜禁止!あとラッシー飲め!と言われたにもかかわらず野菜中華丼をオーダー)



このゲストハウスの店主がこの旅最高のインド人で、薬をくれたり経口補水塩を買ってきてくれたり、ミネラルウォーターも売店より安く提供してくれた。(一緒に写真を撮ったのだがNのカメラにおさまっている)バラナシへ泊まる、かつ安い宿に泊まる際は超オススメする。

さらに水に気を付けるポイント(土地とブランド)も教えてくれた。
「ミネラルウォーターは未開栓というだけで安心してはいけない。Bisreli(ビズレリ)しか飲んじゃだめだ」


(命の水Bisreli。どれだけ油断ならないんだよ・・・)

そして経口補水塩の袋には「W.H.O(世界保健機関)」と。
なぜ僕は異国の地で生死ギリギリの人が飲みそうなものを飲んでいるのか?

(屍や。。。)
H、K、Nはバラナシ大学を見学に行ったらしいがその間も僕は寝続けた。


夕方。トイレだけでインド最大の目的とも言うべきバラナシの滞在を終えては意味がないため近くのガート(舟付場兼沐浴場)からボートにのりに行く。


(ボート漕ぎのオッサン。なかなかサービスもよくチップをあげた。)

一般的なガンジス河のイメージは「汚い河、でもインド人はそこで水浴びしたり洗濯したりしている⇒インド人汚い」というものではなかろうか。

僕の中でのガンジス河のイメージは完全に遠藤周作の「深い河」ナイズドされてしまっていたので「許しの河」というイメージだった。
「深い河」がどういう作品かとざっくりと説明すると・・・戦時中にビルマで戦友の肉を食べて生き延びたものの悪夢に苛まされ続ける人、仕事一筋で顧みなかった妻を失い最期の「私は生まれ変わる」という遺言を信じて旅をする人、愛や信仰といった世界を信じられず信仰に生きる同級生を見下しながらも唯物的な夫に愛想を尽かし離婚した人など、現代日本におけるいろいろな孤独を抱えた人たちがそれぞれの理由でインド旅行に参加し、ガンジス河のあるバラナシに集うという話。

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(ガンジス河の片側は喧騒の町並みだが片側には何もない砂州が広がる。明かり一つ無い彼岸から見た俗世の光は艶かしかった)

それぞれの人生にそれぞれの悩みがある。その多くは人と人の関係、愛する者とつながれなかったり、失ったときのものである。
千差万別、決して交わらないように見える悩みや悲しみの根源は、どこかで大きな一つの流れにつながっている。
人々が孤独や悲しみをそれぞれの宗教、それぞれの言語でガンジス河のほとりで祈り嘆くとき、他者の精神の中にある命そのものへのいつくしみが感じられ、互いを許し、人間そのものへの愛が感じられる。
どんな嘆きも悲しみもすべてを受け入れて流れ続ける大河、それがガンジス河だと、それが小説の物語から得た僕のイメージだった。

では実際のガンジス河はどうなのか?というよりガンジスにたどり着くまでのインド世界で僕はなんとなく「許し」や「すべての河が一つに集まっている」イメージが実感に近づいていくのを感じていた。

それが結びついたのが、ボート漕ぎが案内してくれた火葬場「マニカルニカー・ガート」だった。ここは写真撮影禁止なのだが、いたるところに焚き火がくべられていて、親族が花に囲まれた担架に乗った遺体を火まで運び、火葬中に祈っていた。また、誰も身寄りの無い遺体も淡々と焼かれており、燃え残りを狙った野犬がうろついていた。
人生を全うできなかった子供や病死者などは火葬ではなく水葬されるそうである。

さまざまな場所で幾千と生まれ、おそらく幾千と死んでいく人々。飢え、病気、悲しみ、貧困。そういったものが強烈に溢れているこのインドではあまりにも「死」が近い。実際ここ数年で格段にのびたという平均寿命もまだ65歳くらいだという。
死は愛する者との別れであり、周囲の人間に孤独や命そのものへの慈しみを感じさせる。
その悲しみを少しでも寄り添い和らげるのがヒンドゥー教で、輪廻転生の考え(解脱するまで肉体は自然へ流れ、魂は別の母胎に宿る循環をし続ける)なのかもしれない。

ガンジス河とはどんな場所なのか。どれだけ考えても言葉を尽くしてもはっきりとしたものは出てこない。
大学のときもキリスト教や人間学という倫理の授業があったがいくら考えても確たるものはいまだに僕の中に実っていない。
ただ一つ言えるのは、人間と言う物体そのものの儚さや命への愛しさがこんこんと心のそこから湧いてくる音が聞こえる場所、それだけは確かだと言える。

【死者と生者を包み込む聖なる川「ガンジス川」(水葬された遺体の写真もあるので閲覧注意)】
http://www.zaeega.com/archives/52797119.html


火葬場から放心状態でガートに上がると、プージャー(毎日夕方に行われる祈りの儀式)が賑やかに行われていた。


そのままレストランへ行き、焼きそばの味がするスパゲッティを食べると再び高熱を出すことに。うなされた熱っぽい頭の中では河沿いにたくさん転がっている今にも死にそうな修行者のオッサンたちの顔がぐるぐると回っていた。

その後なんとか帰り、就寝。

やはりシヴァ神は踊り狂い、腹の中を破壊しつくしていた。