阪神大震災から20年~人は忘れかける残酷な生き物である~
どうも僕です。
1995年1月17日 5時46分52秒の阪神大震災から20年が経った。
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今僕は率直に驚いている。記憶が断片的なのだ。
当時僕は小学生で、世界が一度リセットされたような終末感と、身近で人が亡くなっていく経験をしたにもかかわらず、その経験が断片的なのだ。
地震の朝、外を覆う真っ黒な火事の煙は覚えているが、その後に繋がる記憶が途切れ途切れになっている。
これが忘却の恐ろしさである。
探してみるとちょうど10年前に書いたブログが出てきた。
その翌年も書いている。
その翌年も書いている。
最後には2010年、今から5年前に書いている。
これ以降、この日に僕が当時を深く思い出すことはなく、TVニュースで思い出す程度になったことは否定できない。
自分の冷酷さもさることながら、人間の忘却というのは本当にいつのまにか忍び寄ってくるということが本当にわかる。
大学生になってから、何度か神戸を訪れる機会があった。
最近では先月ラグビーの応援で兵庫区のノエビアスタジアムを訪れた。
そのたびに嗅いだ街の風の匂いは、思い込みだと思うが、懐かしい匂いがした。
そんな感覚を持つことがおこがましい。僕は忘れていたのだから。
多くの悲しみが街を包み、「がんばろう神戸」と瓦礫の中から立ち上がった期間を過ごした僕も、20年経てばそのことをわすれかけている。
20年前の話は小学生は現代史として習う出来事だろう。
しかし忘却に抵抗せねばなるまい。できる限り伝えなければなるまい。
あの人々の思い、召された魂を忘れることは決してしたくないのだから。