新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

俯瞰風景



縁あって西新宿の「ジョットとその遺産展」に行ってきた。美術館はビルの42Fにあり、展示を一回りすると、日の落ちた新宿の夜景が一望できた。

遠くまで聳え立つビル群には赤い明かりが灯り、遥か眼下には普段あるいているネオン街や道路、豆粒のような人々がうごめいているのが見えた。

しばしば都庁の展望台にも上ることがあるのだが、ある一定限度を越えた高所からの風景には、圧倒されるものがある。確かに壮観だ。美しい。







しかし、自分の知っている世界を高所から眺めた時に自分に一番強く感じられるものは「衝動」だった。

感情は自分の内部から生まれる。楽しい、美しい、素晴らしい。こういったものは自分の知性、理性によって生まれ、統制されうる感情だ。

だが衝動は違う。外側から不意に襲い掛かって自分を揺さぶる、そういった感じが衝動に近いのではないだろうか。







人が高所に立ったときに襲われる衝動、それは「遠い、遠すぎる」というものだ。あまりに広すぎる視界から、普段見ている世界を見たときの実感のズレは激しい。たとえば、自分の立っている周りの10メートル四方と、見下ろした場合のその地点を含む10キロ四方では、自分が住んでいる世界という実感は、前者のほうが感じられるだろう。多分そういったところだ。





つまりは、高所に立つことで、自分の住んでいる世界から、肉体も精神も強制的に剥がされてしまうのだ。



そういう状態をある程度落ち着いて把握すると今度は、その非日常である俯瞰から日常に帰還したいという欲求に駆られる時がある。ここから落ちてしまったらどうなるんだろう?



「いや、自分はあの世界に戻りたい。」



強制的な日常からの剥離というインパクトを受けて磨耗した自分自身が、そんな狂った思考を繰り出すのは、しかたないことなのかな、とも思ったりする。本当に自殺欲求のない人が高所から不意に飛び降りてしまうことがある、と聞いたことがあるような気がするが、その人もおそらくそういった気持ちになったのではないだろうか。





そういった風に考えると俯瞰は高みであると同時に異界だ。バベルの塔の話に始まり、城の天守閣、エンパイアステートビルに至るまで、人は幾多の建造物を空に向けて打ちたてようとしてきた。異界に存在する権利を得ることが権力の象徴であり、時の強者の高みを目指す欲望に繋がったのかもしれない。

しかし異界に存在し続けた権力の腐敗はどの時代も必定だった。どんな力もやがて滅びるとはいっても、人間の人間らしい視点に足を着けることを忘れた人間は狂い、その滅びを早めるのではないかと、思う。

思考でも視界でも、高みからの俯瞰は時にブリリアントでエクセレントだけれども、自分がどこにいるのかを把握する冷静さを持ち合わせるのが肝要なのかもしれない。







ああ、ジョット展??素敵だったです。2次元なのに非常に3次元的な絵画で。

ルネッサーンス