「ツナガリ」の現在 "出会い過剰"の時代の希望
という、紀伊国屋ホールで行われたラジオの出張イベントに行ってきた
ラジオのサイト↓浅野いにおの絵が印象的
http://www.tbsradio.jp/life/about.html
たまたま本買いに行ったときに浅野いにおのイラスト入りポスター見て、チケット衝動買いしただけなんだけどねwww
小さい講演会的なものかな、と思ってたら予想以上の客入りで、ホール満員になってびびった。
いかにもな普通の大学生っぽい層からオッサン、サブカルっぽい女、ギター担いだ兄ちゃんまで案外いろんな人が来てました。
さてさて、イベントの概要は・・・
『ネットやケータイを通じて「ツナガリ」を得られるようになった現在。
それは、かつて手を伸ばしても届かなかった「何か」に繋がる可能性を手に入れることであると同時に、そのツナガリの多さに、何が本当に繋がるべきものだったのかを見失う時代でもある。
ネット時代のコミュニケーションや若者について多くの著述活動をしてきた鈴木謙介とサブパーソナリティ(佐々木敦・津田大介)が、演劇という表現の中で「ツナガリ」の意味について問うてきた鴻上尚史氏を迎え、現代における希望の在処を探る。』
ってな感じ。内容自体はうろ覚えなので感想メインに書いてみようと思う。
人は他人との関係性を欲する生き物だと僕は考えている。
家族も、恋人も、友人も、人が考える「たいせつなもの」はだいたい人と人との繋がりによって成り立っている。
世論調査でも、一番たいせつなものの項目はほとんどが人間関係に類するものだという。
しかしそう答える一方で、現実の家族と過ごす時間は減り続け、友人、家族ともに繋がりを「希薄」と考えている人は増え続けている。なぜだろうか。
僕はこのイベントを通じてその原因は、
一つは新しいネットワークに蔓延する「空気」の読み合いへの疲労
もう一つは拡大しすぎた価値観
にあるのではないかと思った。
・・・新しいネットワークに蔓延する「空気」の読み合いへの疲労
例えば、何の本質的な意見の交換、コミュニケーションもなく、場の空気を読み続けて遊んで盛り上がって「なんとなく楽しい気がする」友人関係は濃いのだろうか。
「言いたいことも言えずに」とか「本当の自分、我慢して伝わらなくて」とかいうフレーズが流行るだけにみんなそういった閉塞感を感じているのかな、と個人的に思ったりしている。
イベントでは、最近使われている「空気」という単語は「世間」の流体化によるものではないかという話も出ていた。
日本人は社会を持たず、自分の見える範囲である「世間」だけを見て生きてきた民族だという議論がある。
欧米では一神教のもと、心の拠り所となる神の愛は等しく全員に注ぐものであり、人々が全員、社会に向き合って生きている。政治への関心や愛国心もそれぞれが国に向き合っているからこそ生まれる。
一方で僕たち日本人は、やや崩壊してきたもののやはり、自分の周りの小さなコミュニティ「世間」を拠り所とし、そこに属することが気持ちいいと感じる民族だという。一方で世間外の人間のことはあまり見ていないから、僕たちはその世間から弾かれる存在になることを極端に恐れている。
さらに、ネットや携帯で、いつでもどこでも、多数の人と繋がれるようになった現代だからこそ、自分は空気を読めているのか、コミュニティからはじかれていないのか、といった不安が高まるということが明らかになっているともいう。
そしてそれを加速させる要素として、文字だけの不安を秘めたコミュニケーションであるメールやSNS。その他ネット空間に流れる「空気嫁」といった雰囲気がある。
結果、
他人から自分がどう見られてるんだろう・・・っていう心配を他人に見破られて、「お前のことなんか誰も見てねえよ!!」って思われるのに内心びびってる自分が嫌とか、そういう何重もの自意識のバインドにかかった状態の臆病な人が増えているのではないだろうか。
僕を含めて。
臆病だからこそ現実でなかなか繋がれないんですね。
そうやって萎縮していることに、疲れてたりすることもあるのかもしれない。気づかないうちに。
・・・拡大しすぎた価値観
たまたま今日まさしとALWAYS3丁目の夕日の話になって
「ネットも雑誌も、今はいろんな媒体で情報が溢れかえっているけれど何がなんだか分からなくて、時に迷い込む。映画の中の芥川賞を目指す茶川に代表される、どれがいいものとか、どれがめざすべきものとか、そういったものがあった時代の、人々の素直さがうらやましい」
みたいな感想を言ってたんだけど、繋がりの希薄化もこれに近いものがあるんじゃないか、と思う。
たとえば「真実の愛」とか「本当の家族」とか、そういうフレーズがヒットする(最近はそれすらも胡散臭いものと思われるくらいの世の中だけど)のは、基本的に現実の人間関係に対する不安や不満がバネになっているからだと思う。
今日のトークの中で挙げられたのが、日、中などのアジア各国で、若者の人間関係をテーマにしたドラマを出展しあうイベントがあったときのエピソード。
中国の出展したドラマは、主人公のエリート建築学生が、親の手堅く生きてほしいという声を撥ね退け、これからの中国でビッグになるためにアクティブに人脈を広げていくようなストーリー。
恋愛も主人公はミスキャンパスと付き合ってる上に、初回から浮気をして女を口説くという、とても外向きにガンガン広げていっちゃうぜ!みたいなドラマで、大陸の作品にはそういった活気にあふれた雰囲気のものが多かった。
一方で日本から出展されたのは「ラスト・フレンズ」。登場するのは現実の家族に満たされることのない若者たちで、寄り添いあってグループホームのようなものを作り、「本当の家族」を感じながら生きている。恋愛でも満たされることはなく、ご存知の通りヒドい有様である。
おそらく日本は社会的にもある程度先が見えている上、問題を抱えすぎてしまって、若者が閉塞感に覆われてしまっている雰囲気があり、そういったものは普段から感じていたが、そのイベントに端的に現れたような気がした、と語られていた。
ひたすらネット空間に情報が溢れているのは便利だが不安を伴う。そして現実は暗い。そうなると人々は「真実の愛」とか「本当の家族」の形がどこかにあるんじゃないか、といった心の迷宮に入り込んでしまうことになる。
イベントで配られたペーパーにもあったんだけど
「ほんとうの繋がりを求めるほど目の前の繋がりに失望して、ますますほんとうの繋がりを求める。そのほんとうに囚われた人たちに『青い鳥はここにいるじゃないか』と言ったり、彼らを、『愚かな振る舞いだ』と切って捨てることもできるでしょう」
うむ。
だけど、大多数の人間はそういった愚かな、当然の存在だからこそ生まれるのが様々な社会現象だ。みんながみんな悩みを抱えている。
正直僕にとっては、このような心の迷宮に入り込む状態は、暗くて滅入るときもあるけど悪いことじゃない。自分だけが納得して信じられる「繋がり」の形、価値観を求めて悩めばいいだけだから。その答えはそうそう出るものじゃないけれど、その道のりは無駄なものではないと思う。
でも、心の迷宮に入り込むことで精神的に参ってしまったり、あるいはコミュニティから弾かれて(いじめとか)しまったりした人たちのためには「繋がりすぎている現在」から敢えて自然にドロップアウトできる環境があるべきなのかな。。。とも思った。
・・・下世話な話だが、商業的に言えばそういった迷いを癒すような答えを出すことができた作品が売れたりするのではないだろうか。癒してちゃんにも受けるだろうし
偶然目にした一枚のポスターから知ったイベントだったけど、なかなか実りあるものでした。ラジオもこれから聞いてみようかな。