新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

かつての1月17日に起こった地震について

阪神大震災が起きてからから14年が経った。

つまり、多くの人にとって記憶が残っているのを3、4歳以降とすれば16、7歳以下の人たちは阪神大震災という出来事自体を知らないということである。

17日の5時46分、6434人の犠牲者を追悼する儀式が今年も行われたが、そのニュースを見て何かを思い起こす人も減っていくのではないだろうか。これはやむをえない。









立ち上がろうとしても一瞬で足元を救われ転倒するほどの激震。

その直後の100人の泥棒が土足で暴れまわったような家の中。

長田で人や建物を焼き尽くし、須磨の家の近くまで流れてきたどす黒い煙に覆われた空。

ろうそくを灯し、余震に怯えながら眠る救急車のサイレンの響く夜。

ライフラインを全て寸断されても、人と人が心と体を寄せ合って生きたその後。













そういった数々の風景は幼い自分の無知な感情に強烈な影響を残した。

しかし、全ての記憶は時間に勝てない。鮮烈な画面はいくつか脳裏に刻まれていても、大部分の記憶はやがて風化していくのだ。

昨年まではこの日が訪れる度、そういった記憶の風化を嘆きつつ噛み締め祈る、そんなことを繰り返していたような気がする。





記憶は時間が経つにつれただ失われゆくものなのか。



それとも。















両親と酒を酌み交わすようになってから、僕の記憶が曖昧だった昔の話を肴にすることが多くなった。

中でも震災当時の出来事は、50年強の人生を生きてきた親が振り返ってみた時でも、語りつくせないほどの強烈な印象を刻んだという。









揺れの直後、子供の安否が脳裏をよぎった時の未曾有の焦燥感。

情報が錯綜する中、見知らぬ人々とでも有力な情報を交換して少しでも真実を知ろうとした時に感じた初めての一体感。

山を一つ越えた震災の影響が比較的少なかった地域に住む人が、山ほどおにぎりを積んで、隆起した道をバイクで回り配っていたこと。

炊き出しや給水車のところに行くときは小さかった僕らを連れて行くと少しだけ多く物資や水を分けてもらえたこと。

救命活動をした時、共に瓦礫をかきわけた自衛隊員の力強さ。

全壊した家の下敷きになれば死んでしまう人間の命の脆さ。

小さかった子供が栄養失調にならないように食べ物の調達に苦労したこと。

プレハブの仮設風呂を作ってプロパンガスを使ってマンションの家庭全体で使ったこと。

会社は業務を始めなくてはいけないのに交通機関が動かず、長距離を自転車で通勤したこと。

翌年冬開催されたルミナリエ。一年過ぎてもなおボロボロの「被災者ルック」に身を固めた人々は長蛇の列を作った。光のアーチに暖かな明かりが灯った。しかしその下をくぐる人々は歓喜することはなく。魂が抜けたような表情で天を仰ぎ、アーチの周りには犠牲者の魂が漂っているようだったこと。











毎度毎度、震災の思い出話になるたびに、違ったエピソードが白髪の入り混じる父の口から語られた。

酒精が、1995年に僕が知りえなかった視点が刻んだ記憶を2008年の家族のテーブルに次々と蘇生させたのだ。

あの時「親から、人々から守ってもらう」立場だった幼児の自分の視点ではなく「子供を、社会を守る」立場だった親の、大人の視点での震災を見つめる機会が増えたのだ。



当時は「何もできない」ことすら自覚できず、ただ震えていることしかできなかった。

しかし齢21を超えてようやく、

「何かすごいことがあった。それは忘れてはいけないものだ」という記憶にすがって毎年切なくなっていた幼いままの自分が、当時物事がよく見えていた大人の視点からの記憶を断片的にでも受け継ぐ機会を得ることが出来たということだ。













そして僕が震災を思い返して一番感じることは、かつての



「自然が身震いしたときの絶対的な恐怖感」



から



「守るべき人、社会を守るために体を張った人々への感謝」





に変わりつつある。











あの時親や人々に守ってもらった僕のやるべきことは、そういった出来事があった、ということをなんらかの形で伝え続けることだと思う。



「経験したものにしかわからない」

ドライな言い方をすればそういうことになる。それでも粘り強く、何かしらの形で伝える気持ちを忘れないことが、経験しなかった人にもなにかしらの記憶・・・といえなければ思いを灯すことに繋がるのではないかと期待したいのだ。













またそうすることが、6434の命を吸って生きている僕の礼儀ではないか、と思っている。

「忘れたくない」だけでなく「伝えたい」記憶として。