新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

日記なるものをかいてみむとす

ミクシィやらブログやらで、下手の横好きで文章を書き続けていると時々、「文章がうまいね」と声をかけていただけることがある。



その瞬間はそりゃもう穴ぐらに引っ込んでしまいたくなるくらい嬉しく、恥ずかしいのだけれど、そのほとぼりが冷めてみると「自分は文章がうまい」なんて評価できないものだ。

自分が書いているものは高校時代と大差ないような気すらしてしまう。



この現象について思いを馳せていると、どこかのエッセイで中島らもが書いていたことを思い出した。

出典はおぼろげなのだけれど、



「文章が上手い、と褒められるが自分で文章がうまいなどとは思ったことが無い。だから僕は自分で文章の大家と思える人のところにいって褒めてみると、その人もまた同じ感情を持つという。要するに、文章がうまい人は多くの歴史的な文章に触れているからこそ文章がうまい。自分が尊敬する作家や文体があり、そこに到達できない自分は卑小だととらえてしまうのではないだろうか。だから物書きはいつまで経っても、自己を簡単に肯定できないのである」



といった内容だった気がする。

僕の場合は、昔に比べて目に見えないものやそこに感じる自分の感情を表現することに関してはいささかマシになったような気がするが、それでもそこに洗練はなく、どうしても読み返すと拙さが感じられてしまうか、過度な修飾を施してしまう気がする。

また、表現と言う行為は1を1で伝えたり1.5にしてみたりする行為のような気がしているが、0から1を作り出すストーリーテラーには僕はなかなかなれないことから、それが自分の限界なような気もしている。限界は作ったらおしまいかもしれないけれども。





まあでも、文章がうまくなりたいからこの自己満ブログを続けているわけでもなく、ただ日々の浮かんでは消える感情を残してみたいだけなので、下手は下手なりに書き続けていくのも悪くないかな、と思うんだ。