よつやさん
【訃報】
— 上智新聞編集局 (@sophiatimes) 2017年5月13日
「よつやさん」として本学の学生にも知られている井出英利さんが5月10日(水)午後4時23分、脳出血のため都内の病院で死去、72歳だった。
よつやさんが亡くなった。
四ツ谷駅前の、イグナチオ教会の前で暮らしていた男性である。
御年72歳だったらしい。
僕が大学通い始めたのは今から約10年前になるが、その時からよつやさんは教会の前で暮らしていた。
四ツ谷駅前というのはちょっと特殊な空間で、人混みもなく、教会の前ということもありどこか清廉な雰囲気のする場所なのだが、そこに佇むよつやさんから異質な存在感を受けた記憶がある。
だが日本の色々な場所を旅して見聞を広めたり、大学の授業や読書で少しずつ考えが深まるにつれ、僕の中でのよつやさんの在り方は少しずつ変わってきた。
どんな人生を経てここにたどり着いたのか。ずっと交差点に佇み、何を見て、何を考えていたのか。また、よつやさんを見たときに感じた自分の気持ちは、とても浅はかではなかったかと。
よつやさんの目は鋭かった。何かいつも怒っているかのように見えたが、教会に礼拝に訪れるフィリピンや、ベトナムの人の中には、よつやさんの隣に寄り添い言葉を交わす人も少なくなかった。
大学を卒業し、折に触れ四ツ谷に訪れてもよつやさんは健在だった。
最後に姿を見たのはGWのことだ。
一言も言葉はかわさなかったが、そんなよつやさんがいなくなってしまったと思うと、胸の奥がチクッとするような、そんな気持ちだ。
合掌。
本を読まなくなった僕を見つめる大学生の時の僕
どうも僕です。
あけましておめでとうございます。
久方ぶりに小説を読んだ。
最近まったく活字を読まなかったわけではないが、ビジネス書や旅行ガイドブックを読むくらいのことが多い。小説を読むのとはまったく違う行為だ。
本を前者は現実世界をなぞるための情報をダイレクトに得るための行為であり、後者は物語を読み解きながら読者が都合よくメッセージを解釈し、各々が「どう考えるか、どう生きるか」の糧とする行為ではないだろうか。
現実世界にフィットすればフィットするほど、得る情報は現実をなぞるものだけで良くなる。仕事での実力をつけるのであればスキルや自己啓発、実業的な情報を得るべきだし、オフタイムに人とコミュニケーションするのであれば遊び場やグルメの情報を得るべきだろう。いかにせよ、その情報は直接的に時間を豊かにするためのものに他ならない。
一方で小説を読むという行為は自己の世界をかき回し幅を広げるが、それが外的に変化をもたらすことはあるかというと一切ない。その時間は自分だけのために使われる贅沢なものだ。
現実世界にフィットせざるを得なくなればなるほど、その時間の優先度は下がり、所蔵する文庫本の数は減っていく。
それは大人になるうえで至極まっとうなことだが、小説の読書量が減るにつれひしひしとした危機感を感じることがある。
渇望が徐々に薄れていっていることだ。
もっとこんな価値観を知りたい、こんな世界を知りたいという渇望が薄れている。
自分の周りに薄皮のようにまとわりつく義務的な世界に自分をフィットさせることに終始してしまっている。
もう少し、強引にでも読みたくなる本を探して読んでみなければ。
今年もよろしくお願いします。
同じ夢を見る
どうも僕です。
最近同じ夢を、厳密に言うと三部続編で見ています、
一部
僕のやっている仕事がよくない状況を生む。
その時なぜか警察に自宅を取り囲まれて、僕はトム・クルーズばりのワイヤーアクションでマンションから逃げる。あでもそいつらはどこまでも追ってくる。近くの公園も、駅も、逃げ込んだ行きつけの新橋の飲み屋まで。でも逃げ続けるしか無い。そこで眼が覚める。
二部h
自分と同じで仕事がうまくいかない人がタワーに幽閉されている。僕はなぜかその人を助けに行く。いく先々のフロアで僕はこう言われる
「この疫病神」現実では決してそういうことを言わない人々だけに凹むが僕は何故かタワーに登っていく。
やはりトム・クルーズばりのアクションで鍵を爆破し、幽閉された人を助ける。
すると僕はこう言われる。
「ハロー、俺はお前のせいでここにいるんだ、償え」
僕はタワーを下り始める。そこで眼が覚める。
三部
ひたすらタワーを下る。ゆく先々には僕の仕事のせいで迷惑をかけた人たちがいて、やはり追い払われる。行く先々で追手に内部告発されて、僕は排気口に隠れてやり過ごす。
ようやく1Fに降りる。出口はすべて監視で塞がれていて、とうとう僕はつかまる。
僕を羽交い締めにした一番信頼していた人がこう言う。
「お前のせいでこうなってるんだよ」
眼を覚ます。一睡もしていない気分だが空は明るい。
一つ言えることは、やはり自分が至らないからこういう夢を見るのだ、ということだ。
■
どうも僕です。
厳しいのか、厳しくないのか?そう言われると厳しいです。
仕事が大変、そういうのは簡単です。
大変じゃない仕事なんて無い、そう思います。
じゃあ何が大変なのか?外部環境なのか?内部環境なのか?調整なのか?すべて大変だと思います。
その向こうへいこう。言うのは簡単です。いろいろな現実と状況にぶつかりながらやっていかざるをえないのだと思います。
今こういう文を書いて思うのは、現実に飲み込まれている、というただそれだけです。
先人の思いを読んでどう思ったのか、それをどう活かすのか。
そんな余裕なんて無い、ただ突き進まねばならない。
その時、一抹の寂しさを感じます。
ほんとうの大人になるには、仕事のいろいろな思いを制御して、かつ自分でしかできない色を描かなくては行けないのだなと感じます。
という小学生バリの作文でござる、。
僕に使われてきた携帯と携帯に使われてきた僕
どうも僕です。
最近阿修羅の如く断捨離に没頭している僕なのだが、久しぶりにこいつらと対面してしまった。
いわゆる「昔使ってきた携帯」群である。
思い出を振り返ってみたい。
初携帯「J-N04」
ケータイWatch ケータイ新製品SHOW CASE「J-NO4」
思えば中学2年〜高1くらいだったろうか。
最初は電車通学していた僕に万が一のためにに持たせてくれたのだろうが、ガキの気持ちとしてはメールができるということが驚きで、馬鹿の一つ覚えのようにメールに興じていた記憶がある(男同士で何が楽しかったんだか。。。)
当時はN503ì全盛期。友人がìアプリがどうこう、着メロがどうこう言っている中でまだ写メールを武器に躍進する前のjphone。
携帯の中に入っているスノボゲームで溜飲を下げていた。
同じNECなのに、DOCOMOじゃないから、DOCOMOじゃないから・・・
そう、当時高校生的にはNTTDOCOMOは、「貴族のキャリア」だった。
2台目携帯 J-SH53
高1〜高2モバイル端末を持つ喜びを教えてくれたのはこの機種と言っても過言ではない。
JPHONEがVODAFONEに移行することが決まり放たれたこの機種は、当時最大クラスの液晶に高画質カメラ、SDカードの大容量を備えた奇跡の端末だった。
手のひらに美しい画像をもつ喜びがそこにあった。そして、僕はアイコラをたくさんSDカードにためこんだ。
このブログを始めたのもタスクに誘われてこの携帯からメール投稿し始めたのがきっかけである。
あとはVODAFONEというキャリアもなんとなく高校生の腐れ自尊心を満たしてくれたものだ。175RのCM,覚えていますか。。。
3台目携帯 802SH
高2冬〜高3 これは魔法のiらんどバリの黒歴史である。
機種で満足していたSH53だがVODAFONEはサービス内容であっという間に差をつけられた。「パケット定額」の登場だ。宇多田ヒカルがさっそうとCMをした「FOMA」はなにやら定額らしい、と噂が広まる。
男子高生の脳内ではそれは「エロ画像、エロ動画落とし放題」を意味した。
待望のVODAFONE3Gのパケ放サービスがでて、対応機種としてSH53をリリースしたシャープに期待したのだが。。。
接続の遅さ、キーのレスポンスが1秒後、度重なるフリーズ、健全に動いていると思っていたら再起動、など挙動不審を繰り返しエロどころではない。この事態は大いに僕を失望させた。
画像もJ-SH53を遥かに下回り、新機種を購入する際は「人柱」という言葉があることを知ったのである。
4台目携帯 705SH
高3年〜大1年 大学入学の際、こんな繋がるかつながらないかわからんような携帯では、華の(当時はそう夢見ていた)キャンパスライフスタートに支障をきたす!
そう考えていた僕は、「安くてもいいから。。。」と前機種の802より低スペックの機種に機種変。
ところがこれが優秀だった。
薄さ、カメラ、追従性、液晶、処理速度どれをとってもハイランクなはずの802を上回ったこの機種は大学時代の合宿、旅行などで十分使い倒せた。
キーもアルミタッチでなかなか気に入っていた。
この頃の記憶というとmixiの躍進だ。足あとをチェックし、日記を書き、ブログも書き。。。今思うとなんともアホだが結局残ったのは当時終わったと言われたブログだったというのもまた感慨深い。
エロ方面は大学入学時入手したPCへ交代したため、エロ方面の使い方をすることはなく、実に健全なガラケーであった。
5台目携帯 シャア専用携帯
キャリアが完全にsoftbankへ移行し、性能も安定。ネタで、バイト代で初めて自分でかった携帯だがまる3年、十分使い倒せた。僕のヲタ全盛期と重なる機体である。
ザクの頭は未だに家にある。
6台目携帯 F-03B
大学4年の冬、内定先の都合上そろそろsoftbankを脱せねばなるまいということで初ドコモ。時代は代わりsoftbankがiphoneで猛追を開始していたがいやいやまだまだガラケーでしょ、ということで買った09年冬当時最新鋭機種。
防水、おサイフケータイ、ワンセグ、デジカメばりのカメラ、もりもりのIアプリや指紋認証機能と、盛りだくさんであった。
処理速度も4年近く使った機種と比べ文明開化を感じた。しかし。。。
7台目携帯 XPERIA arc
社会人1年目の冬、結局初スマホを購入。
WEB担当に就任したこともあり、スマートフォンを使ってみないことには始まらない、と感じた勢いである。
docomo草創期の端末で、処理速度についてはガラケーに分がある状態。
しかしなにより、飛躍的な画面の大きさに驚いた。
単純に画面が大きいだけで、これだけの情報が見らるという至極当然なことにはまった。それに輪を書けたのがTwitterとFacebookの躍進である。
アプリで1タッチで起動する、という今までのブラウザ感覚から一気に思考が変化したが、その分より早い処理速度とLTEにあこがれ、あっという間に高機能機種に買い換えたくなった。
8台目携帯 GALAXY NOTE2
大きいことはいいことだ、と単純思考に陥った僕は2年目の冬にGALAXY NOTE2を購入。初のLTE体験ということで、これはもはやガラケーを完全に引き離したなと体感した。
容量、処理速度、画像の美しさともに最高で、これもまた持つ喜びを覚えさせてくれた機種である。
9台目 ZENFONE 2
しばらくはNOTEでいいや、、、と思っていたのだが(途中からDOCOMOを解約しOCNモバイルで使っていたがそれでも)
いよいよSIMフリーも安かろう悪かろうではなく、本命が来たということで3年ぶりに新調。CPUもメモリも、廉価ノートに追いついた性能を堪能している。
こうしてみるとまったくえらい進化である。
というか、2年に1回ペースでなんだかんだこのデバイスを変えているが、やはりガラケーからスマホへのシフトは強烈なものがある。
今後はどんなシフトがあるのか、面白さ半分怖さ半分といったところか。
ホーチミン旅行感想〜チョロンとサイゴンスカイデッキ、Nha Hang Ngon(ニャーハンゴン)〜
2日目はダウンタウン的なところに行こう!というところでホーチミン都心から離れ華僑が多く住む街、チョロンへ。
相変わらずバイクだらけ。信号があるところはまだいいが、基本無い。そんな通りを渡る時の掟は「流れが切れそうなところで一定の速度で歩く」。
流れが切れることはめったにないので、えいやで渡る。急に途中で急いだり止まったりするとバイク側がテンパるので、淡々と渡ればいい具合に避けてくれる。決してビビらないように。という按配である。
都心から離れるほど車の数が減り、端的な言い方ではあるが、肌の色の黒い人が増える。別に僕はレイシストでもなんでもないが、これは体感としての感想である。
チョロンは中華人街ではあるが、横浜や神戸のそれとは違い、あるのは主に問屋街である。
小規模なBtoBである。
ポリタンクだけの店、エアコンだけの店、ラジオだけの店、結婚式の花だけの店、仏壇だけの店など、専門店街が色濃く残る。
その中でも大規模な市場がビンタイ市場である。
都心に近いベンタイン市場と違い圧倒的ローカル感。代わりに呼び込みもいない。
エスカレータはあるが止まっている。
この市場をオススメする人は
・ローカルの人々が働く日常を見たい人
・多少のごみごみや匂いは我慢できる人
である。
べらぼうに広い市場には本当にところせましとものが並んでいる。
買い物をする人もいるがここも多くの店は卸商売なので、大量買いする必要があるのではないか。
通路はこんな趣。
ここで飯を食うのは自重しておいた。
このダウンタウンと、ショッピングセンター付きのタワマンが建つコントラストもなかなかの感じである。
ここから再びタクシーに乗って都心へ。今回はしっかり最短ルートで運んでくれた。
昼飯はフォー24。ラップ&ロールのように、清潔な大衆レストランという感じ。
フォー24 (ドンコイ通り店) [ホーチミン]のグルメ・レストラン 徹底ガイド・クチコミ・評判 - フォートラベル
レモングラスやドクダミなど、日本では出てこない香草がいっぱい。
これに
こうする。これで250円。旨すぎて、二杯食った。
食後はベトナムコーヒーである。
フォーよりちょっと高いくらいだが、これが異常にうまい。お湯でゆっくり濾して飲む。エスプレッソレベルの苦味なのだが、その裏にショコラのような香りが潜んでいて、高級チョコを食べているような気分だ。
リラックスして外に出ると隣のホテルで火事があって消防車が大噴水。
都心部にはなぜかジョリビーや
モーパラが。そぞろ歩いている間に日が暮れ始め、夜景をみようとサイゴンスカイデッキを目指す。東京タワーとかスカイツリー的な場所である。
入場料1000円と、ベトナムではダントツで高いのだが・・・今までまわった市街を俯瞰できなかなか満足できた。
これが
こんな感じ。
中も空いてていい按配です。
夜の市場方面も綺麗。
夜のグエンフエ通り(ホーチミン像前)。なかなか賑やか。
夜食はNha Hang Ngon(ニャーハンゴン)
目の前で調理されている料理を見ながら選び、注文できるオープンテラスの人気レストランである。
なかなか高そうな雰囲気だが心配ないプライスであるのがうれしい。
こんな感じで選べる。
ベトナム風お好み焼き(バインセオ)と生春巻き。
ビールを4杯飲んで
やっぱりうまいチキン付きチャーハンを食っても1300円くらい。サイコー。
最後はホテルのルーフトップバーでカクテルを飲み、〆。
ベトナム、ホーチミンの総合的な感想としては
・とにかく物価が安く、飯がうまい。
・バイクが多いので通行はコツをつかむ必要あり
・今まで行った都市の発展度としてはシンガポール>台北>イタリア>セブ>ベトナム>インド しかしそれでも清潔で徒歩で十分回れる。治安もいい。
十二分にリフレッシュできる旅行であった!!!!
ホーチミン旅行感想〜ベンタイン市場とシークレットガーデン〜
一ヶ月以上ぶりの更新。
どうも僕です。
先月から仕事の内容が少し変わって、初めてのことが多い日々だが、元気にやっとります。そういえば、先週はベトナムのホーチミンへ夏休みを利用して旅してきた。
(とにかくバイク、老若男女バイクである)
社会主義の色の残るベトナムだが、近年は発展を遂げているだろうな〜。
さらに首都ハノイ、商業都市ホーチミンのホーチミンへ行ったということもあり、結構街も刺激は少ないかな〜。
と思ったがその予想を裏切るワイルドな街だった。
〜ウィンザープラザホテルからベンタイン市場〜
深夜着の便だったためホテルまでバスで移送されたら即就寝。
ホテルは↑。航空券とホテルで55000円くらいのツアーだったがまさかの高級ホテル。。
屋上はルーフトップのレストラン、バーになっている。
インドの監獄のようなゲストハウス、シンガポールのインド人街のビジホ、台湾のラブホを改装したホテルと比べれば夢のような宿である。
尚、中心街から離れているがバスが1時間に1本出ているので不便はなかった。
翌朝、バスに乗ってベンタイン市場へ。
(バイクの多さの割に基本信号は無い)
ベンタイン市場は、ホーチミンの観光名所的なボッタクリ活気のある市場。
さっそくだが歌舞伎町ばりの「oni-san oni-san」が聞ける。
ベトナムに来て困るのが金の計算だ。ざっくりだが200ドン=1円。このコーヒー豆なんかは63000ドンして「エッ!」となるが実際は150円である。ものにもよるけど日本の4分の1くらいが相場かもね。
1枚ポロシャツ6000円とかふっかけてきたのでどこまで値切れるか試してみる。
結局2枚1200円で買った。絶対パチモンのラルフ・ローレンだしこれでもぼられてるんだろうけど、こういうコミュニケーションが旅の醍醐味でもある。
いい加減売り込みがうざくなってきたので、 市場を出て街に慣れることにする。
統一会堂、聖母マリア協会、中央郵便局へ
ちらちらと道行く人を眺めながら中心街へ。市場から15分もあれば観光地の固まっているエリアへ出られる。
統一会堂。ベトナム戦争終焉後。ここに戦車が突入し、無血開城でベトナムは開放されたそうな。
聖母マリア協会。キリスト教徒は少なくはなく、中は静かに歌が響く。
世界中どこに行ってもカテドラルはあるが、西洋人はアジアの教会を見てどんな気持ちなのかね。
個人的には圧倒的に豪華なイタリアの教会と、陰鬱な感じのフィリピンの教会が好き。ここは質素で清潔な教会、という趣。
中央郵便局。
完全にカオスな路傍と比べ旧統治時代の施設だけ秩序を感じる、アジアあるあるである。
俺の番、マダー?
洒落た土産物なんかも売ってるが、雑貨系はベンタイン市場の2倍以上する。売り込みに耐えられれば市場推奨だ(ベンタインでも一般的な市場より高いらしいが。。。)
ちなみにこのおっさんはずっと郵便局の前でパン売ってるらしい。
道路にバイク停めすぎ、、、
ひとしきり歩き腹が減ったので春巻き専門店「ラップ&ロール」へ
入り口に警備がいるレストランは、たいてい路傍の屋台よりは高いが清潔。ここも多分に漏れないが比較的大衆的な部類に入る食堂だ。
春巻き一皿150円くらいかな。安い。
野菜がしっかりはいってるので結構腹にたまる。
とどめのチャーハン(コムチャー)。もとのご飯がパリパリだがしっかり火が通っていておこげみたいな香ばしい味だ。タレをつけて食うとめちゃうま。
このセットも300円くらいだ。実にイナフである。
食い終わるとスコールが降ってきた。しばらく待つが止む気配もなく、タクることに。
初乗り50円くらい。白のvinasanタクシーか、緑のマイリンタクシー以外はぼったくり率が高いので注意・・・してマイリンに乗ったのだが、こやつ、英語ができぬ。
どうどうと指定したデパートと逆方向に走ってぐるぐる回ってるので人力で誘導。
しかし「ストレート!」というとカチッとウインカーをつけて右へ、
「ライトライト!」とジェスチャーしてもしれっとまっすぐ行く始末。
英語が通じる分インドのオートリクシャのおっさんのほうがマシか。いや、それはないな。
そうこうしている内に雨も上がり、中心街を歩く。ホーチミンおじさんの像。
地下鉄建設中。そう、ベトナムには地下鉄が無いのである。ハノイのも建設中とか。
まさかのインド以下。
サイゴン川。スコールの後だからか、治水が悪いからか、木とかが流されてきてる。そして猛烈に臭い。
川辺のベンチにゆっくり座る気分にはなれないのであった。
日も暮れてくると、帰宅ラッシュ。
ベトナムの会社は8時から17時までが多いとか。定時で上がる人々のバイクで殺人的に混む。
積極的に歩道も走ってくるのでかなりクレイジー。富士急よりもこっちのほうがスリルあってなかなか楽しめるよ、HAHAHA
〜晩飯はシークレットガーデン〜
同行者の友人と会うためにレストラン「シークレットガーデン」へ
雑居ビルを登っていく。
途中のテナントは完全にアパートである。
屋上まで登るといい雰囲気。
333ビールは200円くらかな?あっさりしてるけど、意外とアルコール5.6%ある。
軟骨唐揚げ
らっきょうサラダ
小魚の唐揚げ
撮り忘れたがここでもコムチャーがガーリックが効いててくっそうまかった。
タレをつけるのも同じである。
同行者の友人のベトナムの人は、マーケティングマネジャーが仕事の人で、Webマーケティングに力を入れている人だった。
ほとんど英語が正確に聞き取れなかったが
・SEOを意識したWebライティングやニュースリリースなど、全てはプラットフォームになるGoogleと、端末になるスマホを意識して仕事しなくちゃいけない。
・グローバルのチェーン店舗を任されているが、フランチャイズ化が進めば進むほどコンセプトと品質は同じに保つ必要があると強く感じる。
・前職は金融だったが、成長性には疑問を感じていた。ビジネスの限界を打ち破るのは、今までになかった仕事を創造できるようなクリエイティブな会社だし、それに近しい仕事をするほうがエキサイティングだ。
的なことを言っていた。
言葉は違えど、似たようなことをみんなやって、考えているんだなーと改めて感じた夜だった。
ちなみにビール飲みまくり、満腹で1200円。大満足である。
フォーだけじゃなかったわ、ベトナム。
栄光会の思い出〜栄光会の評判や口コミを調べようとしている崖っぷち受験生へ〜
どうも僕です。
このブログの検索ワードに最近「栄光会 ブログ」というものがよく入ってくる。
10年以上前に通っていた現役生のみ対象、英語と数学専門の塾の名前なのだが・・・まだあったw
この塾は高校二年生から一年間限定の
「このままではマーチも早慶も手に届かない崖っぷちの中高一貫校生の駆け込み寺」
的なポジションにある塾。
高校生活ずっと野球に明け暮れる一方で学力面において背水の陣にあった僕が覚悟の末に入ったところだった。
続きを読む
「マッドマックス〜怒りのデス・ロード〜」圧倒的に狂気、だけどスッキリ!
6月20日から公開中の「マッドマックス〜怒りのデス・ロード〜」を六本木のTOHOシネマズで見てきた。
30年ぶりのマッドマックス4にあたる作品ということなんだけど。。。
いやー脳汁出るかと思ったわ。。
・核戦争で荒廃した世界(北斗の拳のモデル)で水と石油の奪い合い
・主人公は開始2分で敵に捕まり輸血袋扱い
・独裁的な宗教集団を率いるボスが水を牛耳って人々を支配している。
男性はボスのために死ぬ兵士に、女性は子供を産ませて母乳を搾取するという狂気の集団
・全身トゲだらけの車、火を吹くギター。手榴弾と銃弾が砂漠をずっと飛び交う
という世界で逃げて、車の体当たりを受けながら相手を殺して、また逃げて、引き返してまた殺してすべてを手に入れる、そんな作品。
爆音と大画面で何も考えずに見て、アホたちのフルスピードに振り回されるうちに映画が終わってる。
でも執拗なグロとか、感情的などす黒い陰惨さはなくて、とにかくクレイジーな爆発ばかりなので内容が内容なのにどんどん惹きつけられる。
そして1日経たずあの映像が見たくなっているのが今という状態で、なかなか禁断症状を発する映画。
いやー映画館で見たほうがいいっすよこれ
寄稿第三弾〜カジ〜
どうも僕です。
寄稿第三弾は大学の野球サークルのキャプテン、カジ。
彼との関係も大学入学以来なのではや9年近い。
普段は冗長に語ることもなく、口を開けば互いに言葉上でけなし合いながらどこか尊敬している、そんな空気感で接することができる友人である。
また早くからこのブログの内容に対して着目をしてくれており、1読者としても時に感想をくれる稀有な存在である。
ちなみに7月12日をもって無事このブログも11年を迎え、今のところいただいた寄稿シリーズもこれが最後である。まだ募集は続けておりますので、筆を取っていただける方がいれば、よしなに。
それでは、寄稿文をば。
「不死鳥、復活」
度重なる故障とリハビリを乗り越え、その男は神宮球場のマウンドに帰ってきた。
814日ぶりの登板は毎回走者を許す苦しい展開。7安打5四死球。99球で5回を投げ切れなかった。
入団2年目の2004年に右肘内側側副靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受け、2軍でもマウンドに立てずにシーズン終了。 2005年、前年の手術のリハビリの末、4月に1軍登録されると1年間ローテンションを守りシーズン10勝でチームに貢献。しかしながらシーズン終了後には右手薬指と小指の感覚が鈍いという理由で11月に右肘の再手術を受ける。
2006年、2007年と大きな怪我はしなかったものの先発投手としては結果が残せず、中継ぎや抑えとしてチームに貢献。 そして翌年、男は覚醒する。
2008年、12勝を挙げ最優秀防御率のタイトルを受賞。
2009年、昨年度から続いていた連勝記録を14に伸ばすなど、16勝を挙げ最多勝のタイトルを受賞。「負けない男、館山」と言われるほどのチームのエースに成長。
2010年、故障により1年間ローテーションは守りきれなかったものの12勝を挙げる。 2011年もチームのエースとして躍動。防御率は自己最高となる2.04を記録し完投・完封もリーグトップを記録。この年のシーズンオフに右手血行障害の手術を受けた。
2012年、チームトップとなる防御率2.25、12勝の好成績を記録。更に3.4月と9月の月間MVPを選ばれる。 5年連続2ケタ勝利をマークし、球界のエースに成長した館山昌平。しかしその裏で、彼の右肘は・・・。
2013年、数試合に先発するも、肘の痛みを訴え降板。右肘靭帯の再断裂が確認されたため、二度目の右肘内側側副靱帯再建手術(トミー・ジョン手術)を受け、シーズンをすべて棒に振ってしまった。また、6月には今オフの予定だった股関節の関節唇損傷の修復手術を前倒しで受け。手術とリハビリの年となった。
手術とリハビリ。結果を残さなければ即クビという厳しいプロの世界ではどれだけ実績のある選手でも先の見えない不安の日々である。もうダメかもしれない・・・。心が折れそうな時も何度もあっただろう。その中でも「いつか復活する」という強靭 なメンタルでリハビリに励む館山と、「館山はまた復活してくれる」と信じて待つファン。誰もが一日も早い復活を望んでいた。
そして2014年。 リハビリ生活を終え、一軍キャンプスタート。初日から順調な仕上がりを見せていた。誰もが館山の復活を信じてやまなかった。そんな矢先・・・。 2月25日の練習試合では12球で緊急降板。その後二軍で調整を行っていたが、4月5日の巨人戦に登板した際も1球で緊急降板。検査の結果、右肘外側滑膜ひだ切除手術を行うことになった。この時同時に三度目の右肘の内側側幅靱帯再建(トミー・ジョン手術)と右前腕の屈筋腱縫合手術も受けた。その結果実戦復帰まで約1年かかる見通しと診断され、長期離脱がさらに延長されることとなってしまった。
さすがにもうダメかもしれない。館山の復帰は絶望的か・・・。そんなことを言う人もいた。 三度も「トミー・ジョン手術」を受けて復活した投手はまずいない。さらに、その間には血行障害も患う。全身151針。 それども館山は自分の復活を信じて、黙々とリハビリに励んでいた。
笑えないギャグセンスを持つ館山投手。 トミー・ジョン手術Tシャツを作成し、投手陣にプレゼントした。 力こぶをつくっている腕の肘に注目すると、手術経験がある選手には縫い跡があり、経験がない選手は縫い跡がない。しかも左胸の★マークは手術の回数。館山には★3個、左腕の江村は ★2個…。「いいでしょ、これ」と館山。 辛さも笑顔に変え、縫い跡を勲章に変える気持ちの強さが表れている。
2015年
強靭な精神力でリハビリに耐え、先の見えない日々に苦しんだ男がマウンドに帰ってきた。1軍復帰を目指し、2軍戦で少しずつ投球数を増やしていった。4月29日の実戦復帰1戦目で最速148km/hのストレートをマークするなど順調に調整してきた。
館山の復帰登板の知らせを聞いた石川雅規は「本当に苦しいリハビリを頑張ってきた姿を見ているから、148km/hが出たと聞いても驚かない。僕は彼がいたからここまで頑張れてきた。館山がいなくなってからはずっとポッカリ穴があいている感じ。早く一緒に1軍でやりたい。」
この石川の発言を聞くだけで涙が止まらなくなるのだが、一方の館山は石川についてかつて、「石川が左のエース、館山が右のエースと呼ばれる事が多いが、本来エースは1人でいいわけで、エースは石川さんです」と発言しており、この謙虚な姿勢には号泣せざるを得ない。
そしてついにこの日がやってきた。6月28日。 神宮球場に集まったファンの視線の先に、館山がいた。 球場にいる全員が彼の一挙手一投足に引き付けられた。仕事に、勉強に、人間関係に、誰もが不安や悩みを抱え、ままならない人生を生きる。でも、こんな世界にも希望はある。確かにある。現実は自分が思っているよりもよっぽど残酷だ。だから・・・強くなれ。諦めずに這い上がれ。そしたら必ずいいことがある。それを館山が証明してくれたのだ。
結果は全盛期のようにはならなかったけど、そういうことじゃない。また痛くなるかもしれない、次手術したら終わりという恐怖だってあるに違いない。でも、表情を変えずに全力でチームのため、ファンのために腕を振りぬく。その姿勢が素敵なのだ。
そして今日、7月11日。 復帰2戦目。6回1安打1失点で2012年以来1019日ぶりの勝利。
館山「いやー、長かったですね。本当にすみません、遅くなりました!前回5回途中で降りてしまったんですけど、怪我なく無事にマウンドを降りることができましたし、今日は勝負に徹して、チームの勝利に、先に点を取られてしまったんですけど、何とかチームの逆転を信じて、結果的に勝つことができました。僕としては復活できたというのもありますけど、とにかく今シーズンの優勝、そのために一生懸命、腕を振っていきたいです。今日も緑の満員のスタンドを見ても思うんですけど、チーム一丸、ファン一丸となって、一戦一戦を戦っていますので、本当に心強いです。1019日ですか、長い間離れることになりましたが、何度手術しても、皆さんがいればこうやって戻ってくることができるんです。この声援を受けて、しっかり選手みんな戦っていますので、もっと大きな声援を明日からまた、よろしくお願いします! 投げる試合は全部勝つつもりで、頑張っていきたいと思います」
入団13年目。幾度の手術を経験し、リハビリ生活を乗り越えてきた不死鳥の力が、ヤクルトの優勝には欠かせない。
最後に、館山と石川が1年でも長く燕軍戦士でいられますように。
時の軌跡が13年目だと思って13年目の館山と掛けてみようと思ったら11年目でいやがんのな。でもまあ2008・9年あたりが盛り上がり始めって点では館山と一緒じゃん? おれはあの頃の記事が好きだなー。うん子、ちん子、おっぱいとかしか言ってない時期のログがさ。最近の旅とか、仕事とか、メシのネタも好きだけどさ。ってか、俺より神宮行ってるんだからもっとヤクルト戦を取り上げろよ!そんなわけでこれからも楽しい記事期待しています。
彼は言動も行動もドライな様に見えるが、内に結構な炎を宿しているところがある。
他人に自分の気持ちを強くアピールしたりすることがないのだがその分自分と向きあえる強さを持つのが彼であり、だからこそ館山の奮闘を表現する言葉の「熱」を率直に感じさせてもらいましたことよ。
石川「僕は館山がいたからここまで頑張れてきた」 : ヤク中@東京ヤクルトスワローズまとめ
ちなみに館山復活勝利の前日、僕も神宮へ行っており、石川がヒーローだったの。
お立ち台では「館山を勝たせる流れを作りたい、またローテーションを一緒に組み続けたい」というところを終始強調しており、胸を熱くさせられたものである。
08年あたり、つまりは僕の股間の盛り上がり具合と、文章を記すことへの一定の習熟、そして潤沢な時間とルサンチマンの揃ったころが一つのピークという指摘については実にAgreeである。
まあひげの話にもあったけど、今の記事の傾向として対現実的事象に対する1次的な反応の表現に終始してしまっているわけであって、もう少し深堀りした熱い感情表現を思い出さなくてはいけないと
(例えば、「パンティライン=やる気スイッチ」という単純な表現ではなく、パンティラインが起こす僕の感情の中の波の正体は原体験なのか、何かの想起なのか、はたまた神の啓示なのか反証を繰り返すような営みである)
いけないと思い出しましたことよ。
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