表現するということ
もういくつ寝るとお正月。スノボに向かうバスで眠れないので携帯からしたためてみやうとおもふ。
このblogも気付けば500弱のログがたまり、更新頻度がよくないことを差し引いてもそこそこの長寿ブログになってきた。
振り返って高校時代の僕の文章を読んで見れば、時に野球に熱くなり、いつもエロい視線を女子高生に送る僕がそこに浮かび上がるし、受験生時代の文章を読んでみれば、将来の不安や欝勃としたエネルギーを持て余し、自分の思考の渦に飲み込まれている僕がいる。
そこには表現の誤りや、明らかな知識不足の露呈があるけれど、それがその時点での貴重な僕の分身だから、恥ずかしいけど消すのはよそうと思う。もしこのブログがあと2年、3年と続くことがあるなら、きっと僕は大学2年の僕を思い出して懐かしむのだろうから。
さて、なにかを文章にしてためるという作業を繰り返していると、どうしても「こういう文章を書きたい」とか「あの作家みたいなクールな文体を目指したい」とか言う欲が出てくる。
僕もその時々にハマる作家の文体を真似たいとか、近づけたいと努力した時期があった。
だけど、結局は文章は自分の分身だから、形ではなく内容の質を極めようとするなら自分の中身相応のものしか書くことはできない。
はっきり言って情報のインプット量や思考量、表現力に神がかったものがある、いわゆる文豪(明治、大正期の頭が良すぎる人々)またはいい意味で絶対的ベストセラー作家(春樹、龍etc)のような文章を書くことは無理だとわかった。どうみても身の程知らず。本当にありがとうございました
だけど僕が目指せる、意識できる文章があるとすれば、できるだけ魅力のある文章かもしれないと、最近思う。
みうらじゅんや、大槻ケンヂなど。このような本職が作家でないのに、引き込まれてしまう文章を書く人間。いわゆる「サブカル」というジャンルの人間。
彼らは学術的に文学に取り組むわけではない。多分なにかを表現したくて、その一つの技法として文章を書いている。だがメインのカルチャーを押さえているからこそのサブカルチャー。川の支流には必ず本流があるように、そこには確実に知識の巨塔、正道へのリンクがある。
そして彼らの読者のツボの押さえ方には優しさがあると思う。どうしたら読者がよりうなずいてくれるかな?どの表現がより正確に近いんだろう?他人と自分の意識のズレを最低限にするにはどう書けばいいんだろう?
一見ぶっきらぼうに見えて、実は気配りの届いた思考が底に流れる、そんな文章。
決定的な新しい流れを生み出さないかもしれないけど、普段からなにげないことに疑問を持ち、それを表現する。そんな努力は確実にブンガクと言える、そんな気がする。
まあ、僕なりの文章を書くことが、将来何か役に立つわけではないかもしれないけど、書いている僕が楽しくて、なおかつそれを読んでくれる人が何人かいる、それだけでなんだか楽しい気がするし、それでいいんだろうと思う。