新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

懐かしい場所、幸せの記憶

昨日、南熱海の網代に行ってきた。

たまたま幼少期に祖父の別宅があった、というだけの縁しかない場所なのに、この大学生活を通して、僕はなぜか惹かれて2,3度訪れてきた。

しかしなぜ、このタイミングでまた行きたくなったのか、自分でもわからなかった。日々残り少なくなっていく学生生活を意識した時に、総括として無性にそこにいきたくなったのだろうか。





新宿から小田原まで小田急に揺られ、小田原からJR。二時間ほど電車を乗り継いだ。思えば、日帰りとはいえ一人で旅に出たのは久しぶりだった。



自分をひとりぼっちで日常から切り離せば、自分自身と対峙する時間ができる。

電車の旅なら、運転に気を取られることもなく、ただ揺れに身を任せながら物思いに耽ることもできる。

誰かとの会話することはできないが、毎日敢えて考えないようにしていたことや、逆に毎日考えすぎて凝り固まってしまったことと、変わっていく風景を眺めながら真剣に向き合うことができる。



下田行きの電車から降り立ち、階段を降りようとしたら手すりの上で猫が眠りこけていた。自動改札の無い駅は昔と変わらない素朴さと懐かしさを湛えている。心の紐が緩む。



駅を出て2,3分歩くと海岸線に沿って走る135号線に出られる。強い風に吹かれながら潮の匂いをかいでいると、砂浜に何か灰色の物体がうずくまっているのが見えた。

近づいてみると海鳥だったが、なかなか飛び立とうとしない。

2,3メートルほどのところまで歩み寄ったところでバタバタと羽根を動かしながらよろけるように少し飛んだ。

見れば足に大きな長いナイロン紐のついた針が刺さっていた。はずせるものならはずしてやりたかったが、近づけば何度も飛んで逃げ、そのまま波打ち際まで追いやってしまいそうになったので諦めた。残念ながら天命なのだろう。





やがて昼を過ぎ、小腹も空いたので以前まさとと行った食堂に入ることにした。

この近海でとれるものは金目鯛やアジ、カワハギなのでマグロは焼津か清水からのものだと思ったが、とりあえずマグロ丼と味噌汁を注文した。脂が舌の上で溶けるような旨さだった。





腹を満たすとそのまま向かいの旅館の温泉に入ることにした。

海辺にある温泉で、海に突き出した露天風呂が思い出に残っていた。

平日の昼間に日帰り入浴する人間はそうそういなかったので風呂からの眺めも撮っておいた。

が、しばらくするとおっちゃんが。

「この季節になると露天も寒いねえ。でもその分長く入っていられるか。兄ちゃん、どこから来たんだね」

となり、ひとしきり世間話を続けることとなった。





温泉から出て海岸線を再び歩き、干物銀座と呼ばれる商店を巡る。

ある店で90度背中の曲がったおばあちゃんにきびなごやら、あじやら、いかの干物をポンポンと味見で食べさせてもらったので、ついつい土産に買ったらおまけまでしてくれた。





短い日が傾きかけていたのでそのあたりで帰ろうか迷ったが、ずっと心にひっかかっていた場所を訪れることに決めた。

かつて祖父の別宅のあった場所だ。僕が小学校に入るかといった歳のころは家族で訪れていたが、大分前に諸々の理由で手離され、祖父も昨年他界。先月末に一周忌を迎えた。

今までは、小一時間歩くことになるその場所まで、僕のセンチメンタリズムに友人を付き合わせるのも悪いと思い訪れていなかった場所だが、一人の機会に行っておくことにした。





国道沿いに500メートルほど続く干物銀座も途切れ、国道から見える風景は砂浜から断崖に変わった。40分ほど一人で、ひたすら誰も居ないまっすぐな道を歩き続けたが、不思議と全く苦にはならなかった。

歩きながら思い起こされるのはなぜか、遠い昔この地に来た時の家族みんなでの食事のことや、暑い夏の日に別宅の窓辺で終戦記念の放送を見ながら聞いた祖父の戦中の思い出話だった。



三時間に一本しかバスのこないバス亭を目印に、網代山と呼ばれる海を臨む小高い山を登る。かつては別荘地となっていたようだが、バブルももはや遠い昔、今は静かな里山に姿を変えていた。

しかし、そこから先の記憶がおぼつかない。

どこまで登ればいいのか、どこの分かれ道を進むのか。結局そこから胸突き坂の続く山中を20分ほどさ迷ったが、やっとの思いで見覚えのある家を見つけた。



果たしてその家は取り壊されもせず、昔のままの形を残して海を見下ろしていた。木は切り倒されていたが庭は荒れていなかった。

初島を遠く臨む風景も16年前と何も変わらなかった。

ただ祖父は亡くなり、家族も以前のように皆一緒に過ごすこともそうはない。

どんな幸せな時間でも、時間と共にゆるやかに崩れる。子供のころにわからなかったその事実が、今はひしひしと感じられた。





ここ数年僕にとっての精神や気持ちの安定とは、なにかしらの社会やコミュニティで役割を果たすことで得られる安堵感だった。

でもその安定は幼少期のそれとは少し違った。

幼少期のそれは、大切な人たちとただ一緒に時間を過ごすことによって得られる、理屈や論理を超えた温かいなにかだった。





結局僕はこの地を訪れることで、幼少期の僕の幸せをもう一度なぞりたかったんだと、誰もいない廃屋の庭のベンチに腰掛けながら思った。

しかし、別に僕は家族を失ったわけではない。今深い繋がりにある人たちを大切することが、未来で軌跡を振り返った時の僕にしてやれる精一杯のことだ。

そんなことを考えながら、僕は祖父の墓前に飾るための写真を数枚撮った。





思い出はすがるべきものではない。

でも人生で悩んだ時はそっと引き出しから取り出して、自分の心に安定を与えてやれるものであればそれでいい。

「僕にはまだ、帰れるところがあるんだ。こんなにうれしいことはない」

なぜかこのセリフを思い出しながら、僕は電車でまどろみながらトウキョウに帰った。