新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

朝も夜も恋焦がれて

「男は度胸、女は愛嬌」という言葉がある。



こんな言葉を大学のメインストリートでひっそり囁こうものならば、男女平等化が声高に叫ばれるこのご時世、



「え〜〜、なにその古臭い言葉。とびきりフワモテで愛されボディの私たちに、媚びろっていうの??冗談も休み休み言え」



とスイーツにヒールのかかとでぐりぐり踏まれそうなものだが、これ、古くから言われてるだけあって結構真理をついてると思うのよね。



 ごく当たり前のことだが「かわいい女」には2種類ある。ひとつは顔、スタイルがいい。これはその人が生まれもったものであり、化粧やらなんやらで多少変えられるとはいえ、この要素のみで女を判断するとすれば、はっきり言って本能の名の下における「差別」だ。しかしこの差別は人間が動物である限り無くなることがない事実であることも付しておかなくてはならない。某ブリタニア的に言うならば「これは差別ではない、区別だ!」



ふたつ目は文頭に記した「愛嬌」である。この言葉、古くからの男尊女卑社会的な意味で解釈すれば

「男性が力により女性を隷属させる上で要求する愛想」

ともとれるが、ここで僕が言いたいのはそんなことではない。ナッシング。







例えば、あなたがカフェでバイトするとする。そして春、多くの人が新生活を始めるその季節に、秋月杏奈、おっと、平井まりあ、いやもっとポピュラーにいえば長澤まさみ(ここでいささか人道的によろしくない選択肢をいくつかためらったことに関してはご容赦願いたい)似の女の子がそのバイト先のカフェに新しく入ってくる。 そして、思い浮かべて下さい、あなたの属するコミュニティにいる、ルックスが「10点満点中5点」と本能が囁く女の子もそのバイト先に入ってきたとする。



前者は、あなたがバイトに行くと、挨拶ひとつせず無反応。「おいおい後輩やろ、挨拶くらいせいや」とむっとしながらも店長に頼まれて仕事を教えるものの、わかったのかわからないのかも答えようとしない。「こいつホントにレタスのむしり方わかってんのかよ・・・」としばらくして様子を見てみると全然教えたことを実践できていない。もう一度説明するとふてくされる。



後者は、あなたがバイトに行くととりあえず、「おはようございます。今日からよろしくおねがいします」とあいさつし、仕事を教えれば笑顔で反応を返してくれ、

わからないところは質問してくるし、大体一度教えれば仕事ができるようになる。

気さくに話題をふれば当たり障りのない会話をしてくれる。





この場合どちらに軍配が上がるかといえば、明らかに後者に相違あるまい。

内面の美しさ、魅力というのは決して見た目だけで測れないという典型的な例だ。というか経験だ。



まず不可欠な要素として



挨拶ができる、返事ができる。最低限の礼儀を知った上での行動、発言ができる。



ここまでは男も女もなく、社会に生きていく上で人間として当然のコミュニケーション能力だといえる。





そしてさらに



ものごと、動作に確実性、安定感を持たせる、笑顔を心がける



ここまでくるとカンペキすぎてキモチワルイくらいだが、まあ仮にドジっ子だったとしてもだ、向上心があってこちらの指摘を受け入れる真剣さがあって、なおかつそこに笑顔をたたえる元気さがあったとすれば、どんなコミュニティでもなんやかやいって生きていけると思う。

そしてここには外見という要素は関わってこない。その人の心のあり方の問題だ。ちなみに、これが備わっている女性の輝きは多分6割増しくらいになるのではないかと考えている(文部科学省調べ)





要するに愛嬌とは、ある程度全うな社会性に上乗せされて発揮される女性の武器である。どんな男も所詮は♂、同じ仕事のできる人間ならば、ふてくされた人間よりも愛嬌のある人間のほうが好きなのだ(もしその愛嬌を不純な媚びと混同したならば、それを見抜けない上司は部下から舐められそうなものだが)



逆にそのことを分かっている上で愛嬌を自然に備えて、実践できている女は、男を手玉にとって上位に立っているようにも思える。その愛嬌は時には接客能力になり、時にはその人自身の魅力になる。





決して押し売りすることなく笑顔をたたえることができる女性は強いのである。