新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

僕たちの行方

(長文注意…(´;ω;`))





僕たちは〜迷いながら〜たどり着く場所を探し続け〜悲しくて〜涙流しても〜いつか輝きに変えて〜



種死?そんなの関係ねえ。



大学生の数だけ、いろいろな夏がある。



友達と酒を酌み交わし、夜を語り明かす夏。インターンに明け暮れる夏。海外を放浪する夏。スポーツに没頭する夏。恋に燃え上がる夏。バイトに捧げる夏。二次元に萌える夏。



ただ、大学3年生の晩夏ひぐらしが鳴く頃にもなると、そろそろモラトリアムの終焉の予感を感じざるをえない。それは、友人たちが粛々と、だが確実に思考を未来に移していることから感じる焦りからくるものでもある。



この前の高校時代の野球部のチームメイトと行った合宿で、同級生から近況を聞いた。僕のチームメイトは9人いる中、文系は僕一人。あとは理系で、薬系なり医系なり、ある程度道筋の定まった進学をしたからか、それぞれに着々と、将来に直結する勉学を進めているようで、将来設計までぼんやりと考えられる雰囲気を感じた。

では文系はどうか。法科を視野に入れている人は一年から進めていた勉強を続行、もしくは追い込む体制を整えて準備をしている。各資格系の人もまた然り。

また、就職を目指す人はガンガンインターンに挑んでいるようであり、先日再会した高校時代の担任からは「・・・就職考えるの遅いだろ」と半ばあきれられた。



僕は相変わらずいい塩梅に呆けた表情で毎日を過ごしているが、とりあえず足りない頭で立ち止まってしばしもっこり黙考してみることにしようか。



もう21歳、人生の3分の1を生きてきて、しかも体感的には今までを遥かに上回る速度で時間が過ぎていく。「死」というゴールまであっという間だ。むしろ背中合わせですらある。

そんなことを最近考えるようになり、自分が心のどこかで抱いていた「ぼんやりとした永続性への期待」とか「自分の人生どーでもいい」感が払拭されつつあるような気がする。

気合を入れて人生の大半を労働に費やすことを考えると、その労働に従事する上での自分の納得する指針、ポリシー的なものを確立しないと、納得して世の理不尽にまみれる働きアリ生活ができないのではないだろうか。



自分は何がやりたいのか。やる上で何を重視し、何のために働きたいのだろうか。





まずそれを考えるための素地が大学生活にあるかと振り返ってみる。





何かをやりたい、という意思が、自分の原始的な欲求+、外から入手した情報の統合≒経験則から生まれる感情ならば、結局それを本当に理解してやれるのは自分しかいない。他人はそれを知ることはできても本当に理解することはできない。

いわゆる「オレの最強の味方はオレだよ」というヤツだ。



ただそういう自意識に飲まれて、ある程度の外からの情報入手、または自らの客観視を極度に怠り視野狭窄になっては必ず失敗が待っている。バランス感覚を欠いた半人前の行動をしてしまうからだ。仕事然り、人間関係もまた然り。

よく大学入学祝いと共に進呈される金言?「大学生になったらいろんなことを体験してください」というのを悪意を持って荒っぽく意訳すると、





「高校時代までのじもてぃーな世界よりも広い世間に出て、多少世の中を知っておけ世間知らず。あと自分の体を様々なコミュニティに置いて、それぞれの自分という存在の立ち位置を把握できるようになれ夢見がちな厨二病患者」といったところか。





たしかに、ほんの2,3年ケツの青い大学生活を送っただけでも、世の中に本当にいろんな人がいること、いろんな場所があること、意思があること、矛盾があることその他云々かんぬんを知ることが出来たし、そこから自分の小ささや無能さを感じたりすることしきりだった。

だがしかし、ひたすら馬車馬のように働き、金を稼ぐのは如何か?これでは結果的に欲望の奴隷だ。

極論であるにせよ、それはあまりにも悲しい。やっぱり夢や理想が欲しい。





たとえば、ある男の子の将来の夢に「僕の夢は正義の味方になることです」

というのがあったとする。その子が思い描く「正義の味方」とはウルトラマンであり、もしくは警察官、あるいは自分の尊敬する大人であったりするだろう。

だけど、いろいろな矛盾を孕む現実に接するにつれ、その「正義」という言葉の意味を成長とともに実感するにつれ、その子はヒーローに、警察官になることをやめてしまうかもしれない。というか多くの場合そうだ。「俺がガンダムだ」なんて言えない。

ただ彼が大人になった時、その理想を、目の前のルーチンワークに没頭する中で忘れてしまわなければ、彼は彼なりの生き方で正義を実現できるのではないか。

彼は発展途上国の援助に携わり多くの人々の命を救うかもしれない。彼は教師になり、正義について考える機会を教え子に与えるかもしれない。彼はメーカーに就職し、環境を考えた製品を開発、もしくは販促するかもしれない。彼は技術者として犯罪を防止するためのセキュリティシステムを作るかもしれない。彼は警備員として日夜安全を管理するのかもしれない。彼は彼自身の家族を守り、育むかもしれない。



なんか書いているうちに若干ニュアンスがずれてきた様な気がするが、要するに、彼が理想を忘れないことで、働きながら彼にできる範囲での正義が確立され、それを信じて働いた結果、その人生の軌跡が「正義の味方」を体現することになるのではないか。曖昧だが僕が考えるのはそんなところだ。



「強くなる」でも「優しい人になる」でも、女性なら「美しくある」「輝き続ける」でもいい。「あくまで自分にできる範囲で」というバランスをとりながら理想と現実の摩擦に耐え、擦り減りながらもその最高の形を思い描くことを忘れなければ、きっとそれは「納得」という簡潔な形で実現される。



また逆に結果から考えると、一般的に「成功者」と言われる人々に理想、信念を持って生きている人が多いのは、先に信じるものがあり、そこに向かう為に一心に努力することができたからではないだろうか。綺麗事だろうか。

まさしく、かの王が死後たどり着くといわれる、全て遠き理想郷?





本当にやりたい仕事で稼いで食っていける人なんて一握り、とよく言う。だけどどんな仕事をすることになっても、バランスのとりかた、意識の持ち方次第で理想は実現できると、そう信じたい。

時間が経てば誰でも成長して「大人になる」。だけど選択肢の積み重ねという人生の中で、理想を叶えられるかどうかはその人次第。それを決めるのも自分。

死ぬ時に、「自分は理想への道から外れなかった」と自分で納得できる、そんな人生が送りたいお



え?新興宗教まがいの胡散臭い大口叩いときながら、僕なりの理想を言ってないじゃないかと?そんなん飲みながらでもないと恥ずかしくて言えないっす



サーセン







最後に言わせてもらおう

Fateは文学