なぜ僕は学歴厨になるのか
こんにちは廃人です
僕は他人が発する「僕東大」という言葉に耳がピクっと動く。「僕早稲田」「僕慶應」という言葉にも耳がピクっと動く、まずそこにはなんの悪意もないがなんらかの普通でない感情が胸の中の僕自身部分に生じる、これはたしかなことである。
また彼と話すうち、その経歴に関するなんらかの絶対的自信の匂いを運悪く嗅ぎ取ってしまった場合、器量の狭い僕は無意識のうちに彼との間に精神的な障壁を設けてしまっているような気さえしてくる。そんな自分が悲しい。
学歴。
それはすでに終わってしまった、受験という戦いにおいての戦績そのものを示し、その戦いに至るまでの自分自身のあり方を胸の去来させるものだからこそ、胸にひっかかってしまうのではないだろうか。
自分より上の学歴に人が反応する時、まず直接的にそこに反応するのではなく、自分の目指していた目標自体を思い描くいているのだと思う。
たとえば、僕はKOを目指していた(情痴で結構充実した生活を送ること3年、まあ今となってはどうでもいいことだが)から、「東大」というワードを聞いても、直接的に東大に感情を抱くことはなく、自分が入れなかったKOに関する失敗を心の中で思い描くような気がする。
今自分がいる場所を選択するまでに人はすでにいくつかの選別、もしくは敗北を経てきている。
見も蓋もない非常に単一的な価値観で見るならば、学歴が自分より上の存在というのは
自分より強者だ
そんな人を見ると、
「自分はなぜその位置にいれなかったのか。なぜそこに至る努力ができなかったのか(当人が当時まったく勉強しなかったクソ学生だったにせよ)、なぜ運悪く試験に落ちてしまったのか(当人がどう考えても受かる資格がなかったにせよ)、」
云々という、普段忘却の彼方に葬り去っている、過去に自分が背負ってきた後悔や敗北感が、ちわ〜っすとばかりに顔を覗かせる。
これが如何ともしがたいムラムラを心の中に生じさせるのだ
普通の人、普通の一般的な良識に基づいた考え方なら、学歴なんてそれぞれがたまたま選ぶことになった道に過ぎないし、そのフィールドで自分の持てる力をできるだけ発揮すれば、なんの問題もなくいい人生が送れる。学歴が全てなんてとんでもない、というのがまあ無難なところだろう。
だが一方で、この社会のシステムに於いて学歴という戦いがあること、またそこに色々な感情が強く生まれることは事実であり、それが上になればなるほど、そこに抱かれる所謂コンプレックスは大きくなる。
某掲示板で、慶應は滑り止め、東大にいないと恥ずかしくて書き込めない
という笑ってしまうようなスレタイを見たが、匿名の空間だからこそか、人は醜いほどに学歴においてのコンプレックスを露呈するときがある。
それだけ数々の思いが秘められた学歴だからこそ、人は時に意固地になってしまうのかもしれない。
まあはっきり言ってほんと大学名なんか関係なく、いい人悪い人いろいろいるのは重々承知なんですが、今回の記事はそれを抜きにした根底的な僕の汚い価値観のように受け取ってください。
これからの人生で、学歴やら職歴やら、そんなものぐちぐちいって終わる気は毛頭ないけど、ふと思ったのですよ。
おまけに、ブリタニア帝国皇帝の演説でもどうぞ
人は、平等ではない。
生まれつき足の速い者。
美しい者。
親が貧しい者。
病弱な体を持つ者。
生まれも、育ちも、才能も、人間は皆違っておるのだ。
そうっ! 人は差別される為にある!
だからこそ、人は争い、競い合い、そこに進化が生まれる。
不平等は悪ではない! 平等こそが悪なのだ!
権利を平等にしたEUはどうだ? 人気取りの衆愚政治に座しておる。
富を平等にした中国連邦は、怠け者ばかり。
だが、我がブリタニアはそうではない。
争い、競い、常に進化を続けておる!
ブリタニアだけが前へ、未来へと進んでいるのだ!
我が息子、クロヴィスの死も、ブリタニアが進化を続けているという証。
戦うのだ!!
競い、奪い、獲得し、支配し、その果てに未来がある!!
オールハイルブリタニア!!!