新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

♂と♀について長々と語る



今日はプールと野球を両方やってしまい、家かえってすぐ服脱いで布団に横たわったら意識を失って、今起きたという変態ライフ。

そんな変態が、今日は日本の恋愛観をぼやこうと思う。

恋愛とはなにか?男が女を好きになる、女が男を好きになる、これは本能であり、発情であり、太古の昔から連なる子孫繁栄のための衝動だと思う。恋愛はそこに位置するものなのだろうか?

日本の世の中の男女関係が大きく変化し始めたのは明治時代ではないかと思う。260年以上続いた士農工商が突然崩れ去り、ある意味自由に生きてきた農民や町人に全員に、武士道という支配階級の倫理が強要されるようになり、かつて若衆組や祭りといったアジールによって公認されていた男女の交わりは消えていったのではないだろうか?

また、歴史学者ではないのでよくわからないが、版籍奉還、廃藩置県が行われ中央集権体制が確立したことは、今日まで続く支配体制の安定という点ではもちろん評価すべきところだと思う。だが、江戸時代までの各藩政にあった地方風俗文化などの消滅にむすびつかなかったのだろうか?

いかにせよ、開放的と言われていた日本の男女交際の文化は、どこか後ろめたい雰囲気を伴うこととなり、結婚という断定的な「秩序」を経て初めて存在するようになった。このような恋愛を「秘め事」と呼ぶちょっといけないチックなイメージは第二次大戦後まで続くと思う。

戦後、アメリカの文化的同化政策に適応した日本は、大量生産、大量消費により金があればなんでも買えるという感覚と、自由という名の免罪符を手に入れ、愛も金で判断したり買ったりする時代が到来した。ここに過去の農民時代における性意識に対する開放性がブレンドされてしまい、アジア買春旅行に代表する日本人のモラルの無さが世界に露見したwwwなにしろ日本人には神様という自戒装置がないものだから、いい意味でも悪い意味でもとまらない民族なのかもしれない。



しかし衣食足りてなんとやら、経済も十分に発展した日本人が求めたものはなにかもわからない、学校では教えてもらえない本当の愛だったり癒しだったり(そもそも愛ってなんですか?と子供に問われて語れるのは学園ドラマの教師だけだろう。だがその理想論でさえも万人が首を縦に振るべきではないのかもしれない)。

そこで一役買ったのはメディアだろう。近代化にともない、150年で驚異的に発達したメディア網。新聞、雑誌、ラジオときて、テレビは日本人の意識に革命的な変化をもたらしたのではないだろうか。

一目瞭然な動画は、どんなファッションがかっこいいのか、どんな顔がかっこいいのか、どんな恋愛が素敵なのか、どんな結婚がいい結婚なのか、という具合に、予想以上に一方的に社会的共有イメージの浸透をもたらした。それに相乗して、商業的な情報が次々と発信された。

ここに、現代日本の男女交際観が固定されたといっても過言ではないだろう。

3K(高身長、高年収、高学歴)の男とトレンディドラマのような恋愛をして、結婚して、子供をもうけて、一流大学に入れるまで教育する。そんなあってないようなシナリオに縛られた若者と、過労の時代が作り出したのが恋愛氷河期ともいえる今日の状況と、少子化、非婚化ではないだろうか?もはや政府企画の男女交流パーティでも開くかというニュースが耳に入るほど、男女関係は冷え切っているのではないかと思う今日このごろ。

かといって、自分にとってふさわしい恋愛をしろといわれても凝り固まった頭にはなにも浮かんでこない。ただ言えるのは「俺は、私は子孫を残したい!!フンハオフンハオ!!ウオラアアアア」とでもいうような本能的な衝動への回帰が多少なりとも必要だということだ。だが大事なのはそこに至る過程で、衝動の達成のために金を使ったり謀略を用いたりするのではなんの意味もないと思う。



どうやら、ほとんどの女が、股一つ開くにしても、メロドラマの額縁の中でなければ、自分の値段を相手に認めさせられないと思い込んでいるらしい。しかし、そのいじらしいほど無邪気な錯覚こそ、実は女たちを、一方的な精神的強姦の被害者にしたてる原因になっているというのに・・・



季節的な発情からも自由になることができた人間は、武器のかわりに「秩序」という武器を持って自らの管理権を自然から奪い取った。そこで、性関係も、通勤列車の回数券のように、使用のたびにかならずパンチを入れてもらわなければならないことになる。しかも、その回数券が本物かどうかの確認がいる。ところがその確認たるや、秩序のややこしさにそっくり対応した、恐ろしく煩瑣なものだ。おかげで性は、みのむしのように、秩序のマントに埋まってしまった。おかげで、男も女も愛情という、ないものをあるかのように錯覚して回数券を偽造しながら、互いに猜疑にさいなまされる。あわれな指には、もう帽子を脱いでくつろぐ場所すらない。

安部公房砂の女」より(要約。略、輔弼多)

愛ってなに?人間不信者を人間信者に変えてくれるものwww?そうでなければ互いにすべてを赦しあえるもの?

そんなものも現実的にはありえないと思いながらも、そんなことを考える僕もいろいろなものに縛られているのだとため息をつきながらも、ぼやき続けるのでした。



P.S 知識不足で突っ込みどころ満載な点はかんべん