新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

男の子と女の子

PS2の「Gジェネレーションスピリッツ」が発売・・・

宇宙世紀に照準しぼって、最強にコアに作ってあるらしく、店頭のPVだけでも脳汁でまくり。欲しい!やっぱり逆襲のシャアはネ申。





さて、この間新聞の部室で話していたんだが。

S木M之「俺は、小説の軸として、男と女がいて、そこになにかしらの感情のやりとりがあるものが読みやすいんだよね」



廃「ふむむ、Oh,yeah」



片思いでも、恋というベクトルが発生すると、自分の中にややこしい感情がやたらと発生する。相手を好きになると同時に、相手が鏡になって

自分の感情が大映しになる。



嫉妬、苦しみ、憎しみ、ぬか喜び。



そんな風に著しく化学反応を起こす新しい自分と向き合わなければいけなくなるが故に、恋愛は人間としての成長に関わってくるのかもしれないし、だからこそ小説の題材にも多く使われるのかもしれない。



だけど、恋愛は人間の成長を促すひとつの要素ではあるけれど、小説のミソがそこだけに絞られて、そこで完結するとすれば、その小説はいまひとつ読み応えがないものになってしまうのではないだろうか?



スイーツ(笑)でも恋空でも、世界の中心でryでもいい。メディアに担ぎ上げられた作品がそのままヒットするたびに心がさびしくなってしまう。



マスゴミ「だって、人が死ぬだけの小説がバカ売れするんですよ!ガハハハハハ、儲かる儲かる」

みたいなセリフが絶望先生にあるけれども。





要は「私とカレの愛はもうハンパないの、もうセカイレベルなの!切ナイの!!二人の愛はセカイを救うのよ、ヤバイ。愛ヤバイ。まじでヤバイよ」

っていう時点で終わってしまうものが多い気がするのだ。



たとえば村上春樹なんかは、友人関係、恋愛という日常要素から、人との「決して一つになれない個と個。でもその繋がりの可能性と願い」を抽出して読者にその可能性を託す、という昇華があるから、まだ読めるのかもしれない。

さかのぼれば、時代がもっと激しくうねっていて、そのうねりが多くの国民の身近にあったころの作家は、恋愛だけではなく、そのほかからも昇華する素材をひっぱってこれた、あるいは昇華させることのできる才能があったからこそ、それぞれの作品に重みがあるのかもしれない。

歴史上の寓話やエピソードに、現代に生きる人間にも通じるテーマや感情をあてがうだけの教養があって、なおかついい意味で人生経験に長けた人間がいないわけではないが、小説に情熱を傾ける人間にはいないのだろうか?その点平野啓一郎とかは一瞬期待したけれど、イマイチのまま。



問題は、恋愛から抽出されたエキスが人生を生きる上でいかに反映されうるか。この時代の閉塞感の間隙を縫って、そういう一つのテーゼを読者になにげなく差し出してくれる、柔らかくも深い、今に生きる小説家が出ないだろうか。