新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

機動戦士ガンダム00 二期25話「再生」 ミクロの幸せと、世界との繋がり。その果てにあるもの。

 この半年生き甲斐にしてきたガンダム00が終わってしまった!

 ガンダムは一つのサーガと化してしまっただけあって、ガンダムシリーズとしてみれば賛否両論あると思うが、この作品は何を訴えかけているのか、日経ビジネスオンラインの監督のインタビューも交えながら、単独の一つの物語として考えたいと思う。

 今までブログでたらたら述べてきて、その延長線上で語るのでところどころ論が飛ぶかもしれないが、できるだけ一つの日記で完結する内容を心がけて書いてみたい。





 最終回に凝縮されたメッセージは大きく分けて三つあると考えている。

?自分自身の幸せを希求し、実現することの大切さ。

?自分たちが生きている日常と、一見関係ない世界の趨勢が実は相似した存在であり、決して断絶したものではないこと。

?矛盾を孕んだ人間という存在の集合体である限り世界は決して変わらないけれど、目指すべき目標はある、ということ。









?自分自身の幸せを希求し、実現することの大切さ。



 中東の少年兵として聖戦の名の下に戦いを強要され、戦場の中で生きることしかできなくなった主人公、刹那。

 その戦いの連鎖を断ち切って、平和を実現するために、前期ではガンダムという絶対的武力を行使することで世界の団結を目指し、後期では団結後に独裁という腐敗に陥った政権を破壊するという矛盾した存在だった。



 一方でヒロインの中東の亡国の皇女マリナも平和を求める気持ちは同じだったが、そのアプローチは、歌を通じて人の原点の幸せを思い出させ、共有することで小さな平和を広げていく、という全く異なるものだった。



「平和を求める気持ちは、私もあなたも同じなのに、解り合っているのに、どうしてあなたの道は、交わらないのでしょうか。

あなたは武力を行使して、世界から争いを無くそうとしている。

もし、それが実現できたとしても、あなたの幸せはどこにあるのでしょう。

罪を背負い、傷付いて、それでも戦い続ける。そんなあなたの生き方がどうしようもなく、悲しく思えるのです。

自分の中にある幸せを、他者と共有し、その輪を広げていくことが、本当の平和に繋がると、私は考えています。だから、あなたもあなたの幸せを掴んでください・・・」







 社会とか共同体とかが大きくなって多様化して、一方で世界の巨大な趨勢があって。そういう時代の中で翻弄されることになる僕らにとって、書物やメディアで聞くような綺麗ごと云々を抜き去った、心から主観的に肯定できる、個人的な現実の上にある立脚点っていうのはなかなか取得が困難だ。

 その人の経験次第だから。

 例えば、なんのために生きてるの??って聞かれて「家族を守るため」とか「恋人と一緒にいたいから」と応えるのが普通の一般人だ。

「世界平和のためです」とか「正義を守るためです」というのマクロの大義だけでは必ずしも自分の実感できるミクロの幸せに直結しないから。

現実の例にすれば、私は会社のために働いています、となる。





 ここで「家族なりなんなりを守りたいからこそ、私は世界平和のために戦う」という状態。これがマリナ姫が刹那に願う姿なのだと思う。

前項の例にすれば「家族を守りたいからこそ、私は会社のために働き、日本経済に貢献する」という状態。

要するに、『マクロな願いと自分のバックボーンにリンクが出来ている状態。

これが大切なんじゃないでしょうか』という視聴者へのメッセージではないだろうか。



TVシリーズではその点「自分が幸せになれない」という刹那の破綻は解決されずじまいだったので、劇場版に期待したいところ。















?自分たちが生きている日常と、一見関係ない世界の趨勢が実は相似した存在であり、決して断絶したものではないこと。



 刹那やソレスタルビーイングみたいな半ば人身御供と化した人間はそうそういないので、普通に人として生きれば、自分にとっての幸せを掴もうとすると思う。



 でもその個人の幸せは世界とリンクしている。

 例えば日常の幸福とかも、マクロな軸が少しでも傾けば簡単に崩れてしまうわけで。まあ平和主義で島国で安全保障的にはアメリカの属国な日本では、そこまでの影響はないけど、アメリカだってテロで生活激変した人もいるだろうし、アフリカや中東、この前のグルジアでも紛争の度にマクロによるミクロへの介入が行われているということになる。

 しかしこれを認識するのって厳しいことだと、基本的には思う。TVの向こうの紛争のニュースだって他人事と感じることは多いし。 



 そういった難しさと共にある重要性を意識させる存在が、この作品における日本の青少年サジの存在だったのだと思う。

 自分を平和な日本の一般人で世界的な戦争とは無関係と思い込んでいたサジは、誤解で治安維持部隊の運営するアウシュビッツのような場所に入れられ、偶然刹那たちから救出され行動を共にすることとなる。

戦いに同行する中でわかったのは、知らない内に彼が独裁政治の笠の下で日常を営み、マイノリティを沈黙と無自覚で殺していたこと。要するに二つの繋がりを実感してしまうわけだ。





水島監督はサジについてこう語る。

 沙慈(さじ)という日本人の青年を登場させたのですが、彼は、別の国で起きている戦争が、自分とは無関係なものだという気持ちでいたんです。ところが恋人が戦いに巻き込まれて傷つけられたことで、争いを起すもの全てを憎むようになる。沙慈はガンダムに乗る刹那たちを非難するわけですが、そんな彼自身、戦地から逃げるためにした行いが、結果としてたくさんの人を傷つけることになってしまったというエピソードを入れました。

 自分のいる場所の延長線上で起こっていることが、「自分とは関係ない」ものであるはずがないと思うんですよ。

 自分だけが豊かで安全であればそれでいいという落ち着け方は、世界が共有地である限りできないのでは、と。「ダブルオー」ではそういうことを投げかけてみたかった。じゃあ、あなたの大事な人が危険な場所に行ってしまったらどうする? もうそれで他人事じゃなくなるよ、という実感を少しでも視聴者に感じてもらえればと。







エンディングでサジは恋人と寄り添い地球連邦成立を前に語り合う。



「世界はこれから、どうなるのかな?」

「正直、僕にもわからない。でも、僕たちは無自覚ではいられないと思う。平和の中にいた僕らは、現実を知り、戦いを知り、その大切さを知った。考える必要があるんだ。本当に平和を求めるためなら。世界について考えることが。」













?矛盾を孕んだ人間という存在の集合体である限り世界は決して変わらないけれど、目指すべき目標はある、ということ。



個人がそれぞれの日常と世界との繋がりを意識し変わっていくことが大切、というメッセージはわかった。

でも、そんな個人同士のすれ違いこそが争いが無くならないという本質。これについてはどういった切り口のメッセージがあるのか。



ガンダムを創造した過去の科学者イオリアは、いくら歴史を経ても、地球上で紛争をやめる気配がない人類に失望していた。ここまで同種族との理解のできない人間は、いずれ来るかもしれない地球外の異種の対話など到底無理である。

そこでガンダムという絶対的な武力により世界を団結させた後、自分の生み出したクローン、人の上位種といえるイノベイターによる独裁支配で人を導く、という計画を立てる。

これがこの作品の始まるきっかけである。異種との対話、というのは飛躍していてSFチックではあるが、地球を人類の共有地として視聴者に意識させるための概念としては悪くは無いと考える。





その人類の共有地地球で紛争は止まない。もちろん富や権力を巡っての戦いはいつの時代もある。しかしいつまで経っても終わらない宗教紛争や人種間、主義主張を巡る戦争を見ていると、戦いの本質はもっと違うところにあると思う時がある。

水島監督は「学校や近所、職場での個人の諍いも、地球上での国家間の争いも本質的には変わらないのではないか」という意見を持って作品作りに臨んでいる。





水島監督

 個人が追求している「利益」とは「俺の考えややり方が絶対正しいんだ」という心ですね。自分が絶対正義であると主張することが、他人の価値観ややり方を全否定することになる。船頭多くして何とやらと言いますが、己の正義がいろんなものの足を引っ張っていると思うんですよ。

 前に、今の時代には、「正義でありたい欲望がある」と言いましたけど、俺が正義だという主張も欲望の形のひとつであって、己だけの利益を追求する行為とほとんど変わらないと思いますね。

 ……逆に言えば、僕自身にも「正義でありたいという欲望」があるからこそ、こういうところにこだわってしまうのかもしれません。

 だからこそ、「ダブルオー」では絶対正義などない、という描き方をしたかったんです。異なる価値観をそれぞれ持ったたくさんの勢力を出したのも、そういう理由からでした。ある価値観の正しさを主張する勢力があれば、逆の価値観が正しいと思う勢力もあるというような。

 主人公たちは、ガンダムという兵器を使って各地に武力介入をして戦争根絶を目指すのですが、別の地点にいる人から見れば、「テロ行為」にしか見えないという「自分がやった“正義の行い”からも、他者の恨みや間違いは生まれてくる」という話なんですね。





最終回で自分の存在を絶対的に「神」と慢心し、人類との対話を断ったイノベイターリボンズが、紛争を終わらせ人類を導くと主張した時は、この絶対正義への欲望、戦争を終わらせようとする存在がその本質を体現するという皮肉を感じた。



でも、それでも手を繋ぐことは可能なのか。誰もが、何を考えているか分からない他人に恐怖を感じ、思考を停止してしまいがちだ。だから悪意が芽生え武器を持ち、他人を排除する。

そんな世界で、何が人を対話に導くのか。それに対する一つの見解がマリナの歌う挿入歌「TOMORROW」に込められている。







喧嘩をして あの子が泣いて

「ごめんなさい」言えなくて

心の中 叫び泣いても

言葉にしなきゃダメだよ



ありがとう ありがとう 僕のおともだち

会いたいな 新しい ともだちのみんな



キミと手をつなぐ

それは翼になる

みんなの手 つなぐ

大空も飛べる



笑う 笑う 大きな声で

呼んで 呼んで 大好きな…



虹色かけ橋 渡って「おかえり」



お金がね あってもともだちは買えない

なにもなくてもね みんながいるんだ







水島監督

 人と話すとき、言葉の捉え方で意味が変わってくることってありますよね。悪意を持って解釈すればこう取れてしまう、みたいな。でも、相手への疑念とか恐怖がなくなれば、相手のことを善意に解釈することができると思うんですよ。

「相手が怖いからスタンガン(武器)を持つ」という負の連鎖とは正反対の、正の連鎖が起こるわけですね。相手が怖くなくなれば、身構えることもなくなると。

 自分が武器を捨てれば、相手がこちら側を善意に解釈してくれる可能性は上がりますよね。

 逆に、相手の側が、こちらを怖がって身構えている場合もありますよね。向こうが「値踏みされるんじゃないか」と考えているかもしれない。

そんな時は、自分のほうから先に相手を評価すれば、相手も恐怖をなくす、と思うんです。相手と友好的な関係を築こうと思ったら、自分から先に相手を評価してあげるアクションが大事なんじゃないかと思いますね。

 結局、「他人を認めること」と「自分の利害を一致させる」ことは、背反するものではなく、バランスを取ることができるんじゃないかと思うんですよね。

 相手と自分が手を繋ぐことで、自分にとって良いことが起きるかもしれないという希望の下に手を繋ごうと。そこを拒んでしまったら、良いことが自分に起きないかもしれない。もしかしたら2つ先に手を繋いでいる人のおかげで、良いことが起こるかもしれないし。

 「良いことを見つけるためには、みんなで手を繋ごうよ」と考えるところもあって。それはいろいろな人と手を繋ぐことで、1つだけではない様々な良いことが起こり得るということなんですね。





エンディングの連邦議会で、以前独裁政府に弾圧されていた反抗組織のメンバーたちは語り合う。

「これで、世界は変わるのね。」

「ああ、だがまだ始まったばかりだ。互いが理解しあい、手を結べる平和な世界。言葉にするのは簡単だ。だが我々は、目指せなければならない。生まれ来る子供たちのために。」

「ええ、そうねクラウス。私たちから変わっていかなければ」









様々な破壊と再生を繰り返し世界は変わっていく。そして決して一朝一夕に平和も、人類の相互理解も成り立たない。

だが時計の針を戻す愚は犯さないよう、それぞれが自身を変革させていく必要があるのだと思う。

まずは身近なところから。

バイト先でも、サークルでもなんでも、ちょっと気が合わないな、よく知らないな、という人と対話してみること。その恐怖や疑念を振り払う練習をしてみること。そういったことの積み重ねが、人と人の繋がり、理解への可能性の実感となるのかな、と強く思った。







水島監督

「ダブルオー」も、主人公たちが(ガンダムという)武力で戦争を根絶しようとする、矛盾した設定になっているんですね。武力で平和をもたらそうというのは、彼ら自身も、矛盾した行いだとわかっているわけです。強大な武力を持ちながらも自分の無力さに気づく、というお話でもありますしね。

 でも、若い人たちにこうしたシミュレーションを見てもらって、自分の周りのことを考えるきっかけになれば、この作品を作った意味は僕的にはあるわけです。

……だってどう考えても、この(武力介入という)やり方だと平和は来ないと思うんですよ(笑)。

 マイスター(ガンダムの操縦者)たちが、だんだんと何かを成し遂げる。でも、成し遂げたけれど、その先はどうなるの? みたいな終わり方になると思いますね。だってほら、世界って変わらないじゃないですか。

「これが彼らが変えた世界です」なんて提示してしまうと、誰かすごいヒーローがいれば問題は解決するというふうにとらえられてしまう。それはリアルじゃないし、真実ではないですから。

 でも、ガンダムマイスターたちが努力して成し遂げて変わった部分、「世界の中でこのぐらいのことは起こるでしょう」というものは提示します。そこは、ちゃんと見せてあげたいなとは思いますね。

 スーパーヒーローの奇跡の力ではなく、大勢の人々の、世界の規模からしたら小さくしか見えないような働きかけが、少しづつ連鎖して世界を変えていく、それでいいんだと思います。

 作品を見ている人が「じゃあ、こういうすごいヤツがいればいいんだな」と言って、物語の本をパタンと閉じてしまうのではだめなんですよ。一人一人が、自分自身がリスクを取ってそうならなきゃいけない。「すげえよ、ガンダムマイスター」で終わっちゃいけないんですよ、この作品は。





参考:アニメから見る時代の欲望 日経ビジネスオンライン

http://business.nikkeibp.co.jp/article/life/20080811/167691/