新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

ホワイトバンドとネット空間

今年の夏爆発的に流行ったホワイトバンドをご存知だろうか?

水泳の北島選手やミスチルの桜井サン、サッカーの中田選手など多数の著名人がCMをやっていたのを街で目にした人もいるだろう。300円という手頃な値段にみんながしているという連帯意識も手伝ったせいか、売り上げはすさまじかったようだ。今年の夏の若者の腕にはかなりの確率でホワイトバンドがはまっていた。

コンセプトは「ほっとけない、世界の貧しさ」

売り上げのいくらかが世界の貧しい国々の援助に役立てられる…というのが一般的なイメージだ。まあファッション目的での購入が多かっただろうが、こんなに手軽にいいことができるなら、という気持ちを持つ人が多かったからこそこれだけのヒットになったんだろう。

しかし実際のところは「世界の貧しさをほっとけない人々がこれだけいる」ことを政府などにアピールする社会的運動がホワイトバンドの目的であり、途上国の援助にそこまで役立てられているわけではないようだ。ホワイトバンドを扱った業者は黒字ほくほくの大儲けだった。なんだか納得いかない話だ。偽善の2文字が頭を横切る。

ちょっと前の日経新聞で、このホワイトバンドに関する特集があった。そもそもホワイトバンドの発端はブログだったらしい、今急激に膨脹しているブログワールドで「これを流行らせよう」という運動をした結果がこのヒットにつながったのだという。

僕はこの流行が生み出された一つの要因として、「ネットという膨らみ続ける内輪空間」が影響していると思っている。

サイトや掲示板、ブログなどのネット空間には複数の「住人」が存在している。彼らにとってその空間は家に等しい。よってそのサイトに上がりこんでくるよそ者を基本的には拒む。サイト内の住人同士で作った暗黙のルールを守れなかったり、知らなければ誹謗中傷が始まり、その時点である意味「内輪」空間が生まれる。内輪空間はとても熱しやすく、よってブームなども生じやすいのではないだろうか?

今問題になっている「のまねこ」騒動がサイト世界と現実世界の壁を象徴している。

2ちゃんねるという巨大掲示板群。あれだけの巨大空間で、たくさんの人が出入りする2ちゃんのどこが内輪空間なんだ。と思うかもしれない。だが2ちゃんねると日常世界の間には明らかな壁がある。

のまねことは、エイベックスが、2ちゃんねる関係のフラッシュからブームになった「恋のマイアヒ」を宣伝するため、2ちゃんねるの掲示板で、感情表現などに使われるモナーというキャラを真似て作り上げたキャラである。エイベックスが「のまねこ」に特許を出願したことで、2ちゃんねら〜達の怒りは頂点に達し、エイベックス不買運動なるものを起こしているとの話もちらほら聞く。

2ちゃんねるというのはたしかに多数の人間が出入りする空間ではあるが、そこには住人が作り上げてきた独特の言い回し、当て字、アスキーアートなどの様々なルールがあり、それらを駆使して議論する住人達の様子は2ちゃんねるを初めて見る人=よそ者には理解不能だ。つまりどれだけ空間が巨大化しようともサイトにくる人とこない人の間にははっきりと線が引かれるのだ。

2ちゃんねるはその閉鎖的内輪空間を保ったまま、これだけ膨脹してしまった。そのため広大な2ちゃんワールドのルールを現実と混同してしまっている人もいるのではないか?

エイベックスという広い現実世界の商業主義が内輪空間のネットを食い物にしようとしたところで激しい拒絶反応が起きているのだ。

しかしサイト内の暗黙のルールを特許にしようとしたところで、著作権も何もない内輪空間の産物モナーを現実世界で保護することは少々無理がある。

しまいに「モナーはネット上の生き物です」などという2ちゃん世界観でアピールをしたところで現実社会は動かない。

熱しやすいネット空間と現実世界との摩擦が、のまねこ騒動からはうかがえるのではないだろうか。

かなり論旨はずれた。要するに、ネット空間という熱しやすい閉鎖的な場所が急激に膨らむことで流行につながるケースがホワイトバンド流行ではないか、ということ。

それではホワイトバンドそのものについて考えたい。

ホワイトバンドを買う人を「偽善者」と決め付けることはしたくない。だが、お金をちょいと払って自分の良心を満足させる行為というのは胸がむかむかするものだ。

実に難しいこの線引き、究極まで突き詰めれば政府のODAのやり方にまでつながる。金だけ出すのではなく途上国の発展により本質的に関わる援助を!!という話題だ。

確かに援助の敷居が高いのはよくないことだ。大それた援助の意義を学び、理解を深めなくては募金もできないような世界だったら、援助なんて成り立たない。多くの人が気負わず手を差し延べることで始めて力を持ったまとまった援助になる。

しかしその一方で、募金箱にお金を入れることで自己完結的に満足してしまい、3日後には貧しい国のことなんて忘れて生活しているようでは虚しすぎる。

では理想の援助とは何なのか?簡単にいえば、募金する人が問題の原因を突き詰めるようになればいい。募金をきっかけに、そもそもなんで貧困は起こっているのか、自然災害は起こっているのかと考え、日常生活で資源を大切にするとか、古着をデパートの海外援助に出すとかする人が増えれば募金も集まり啓蒙活動にもなりまさに一石二鳥である。

だがこれもあくまで理想論。現実はそんなにうまくはいかないんだろうなあ。

あ〜結局なにが言いたいんだか…秋の夜長…