砂の女と自由
夏休みが終わって、後期が始まった。大学の夏休みは、もはや肌寒い10月まであるが、体感的には、間延びした自由であった感が否めない。
心が、入学当初からねばねばと心の奥底に絡み付いて離れない、やりようのない不安感と、冷め切った厭世観に満たされたままなのだ。
そんなグレーの感情が、贅沢貧乏だとかないものねだりであることは言うまでもなく明らかだ。しかし、距離を置いて見てみようが、そいつが胸の奥底に居座っているという圧迫感は取れるものではない。
この状況を打開する答えのひとつとしては…安部公房。
前衛的な彼の作品の中でも、比較的理解しやすいのがご存知「砂の女」である。
男が地方に旅行中、無理矢理砂の穴に部落の女と一緒に閉じ込められ砂かきをやらされるというあれである。
絶対的不可避な状況が、私達を物語に引き込んでいく。一度引き込まれてしまえば、日常で非現実と思われる出来事が、むしろよりリアルであるかのように描写されているように思われ、私達の五感は日常のそれよりも冴え渡り、小説の世界を捕らえ始める。(あ、LOFT思い出しちゃった笑)
非現実に見えることは非常識であること。
人間の常識というものはたいがいの場合いい加減なものである。にもかかわらず、私達は常識をコンパスの針としない限り社会という枠組みの中で息をしていくことはできないことに気付く。
それを視野に入れれば、自由でない自由が徐々に完成されていく小説世界を見ていると、自由なんて観念がいかにいい加減であるかに愕然とせざるをえないのである。
要するに、自由な生活なんていうのは一筋の希望を生きる糧にして、耐え続ける生活にほかならないのだろう。人は光である人参を前に吊され走り続ける馬であることが幸せなのかもしれない。
たとえば、一日のほとんどを受験勉強に費やし、昼休みに食べる松屋の豚丼とゲーセンのゲームを生き甲斐にしていた去年の冬なんかは、一人絶望を感じたりしていたが、あれは単なるナルシシズムに近い感情であって、実態は簡潔な自由であったかのように思われたりするのだ。
今日から始まる後期も、いや、大学生活そのものも、なにか今相応の希望の光を見つけなくては、自由なようで自由ではないのかもしれない。
ということで今期の目標は、希望の光を見つけよう!!
で。
あ、スキーめっちゃ楽しみになってきた!
光あれ。