新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

美醜



女の子という生き物の美しさにひたすら胸を打たれまくっているやすいです。

ホントに天使のようなという比喩は若い女性にこそふさわしい。特にうなじから耳にかけての部分っていうのは、男の追随を決して許すことのない美を誇っている。また、化粧という美を倍増させることができる技があることも幸いだ。

美という部門に関しては決して男性は女性に勝てないと思う。筋肉を基調とする肉体美というのは多少あるけど、行き過ぎると逆効果を招くことからも、女性の持つ柔和な美には及ばない気がする。

女性はその美しい仮面の下に魔性を身につけていることが多々ある、と世間では言われるが、幸か不幸か、僕は若い女性にそのような苦渋を味わった経験はあまりない。

まあ、絶世の美女も目も当てられないようなシコメも、構成物質は水やら炭素やらで、全くかわらないのに、その微妙な配列で、人の印象を全く異なるものに変えてしまうというのは不思議なものだ。

しかし、人間が他の動物の顔を見てもあまり違いを感じないのと同じように、他の動物が人間を見ても表情にあまり差異を感じないものなのだろうか?そうだとすれば人間の美醜など些細なことに思えてくる。

例えば人間に「パンダの絵を描いてくれ」といえばたいてい完成するのは愛らしい一般的なイメージの熊猫だ(・ω・。)老け顔のパンダや美女ならね美熊猫を描ける人間など動物園の飼育係かパンダの専門家くらいのもので、大半の人はある種族の共通イメージを持つ。

画を描く能力がある動物がいれば人間の「一般像」を書かせてみたいものだ。

さて、この流れでいくと女の子のかわいいか否かなんて関係ないぜ!という主張になりそうだが、いくら理屈をこねようと、アダムとイヴの時代から続く僕らの本能がインプットされた、燃えたぎる若い血は、第一印象では内面の美醜より外面の美醜に引き寄せられる。

内面のかわいらしさを感じることで外面の美醜の壁を乗り越えられるのもまた、人間の幸いといえるものだが、それでも見た目が9割という現実があるというのは、世にはびこる僕のようなブサメン、ブサイクたちにとっては辛いところだ。