深夜1時41分、山中湖畔にて
今、夜の湖を前にして、湖畔のベンチに座っている。
気温は少し肌寒いくらい。燈色の街頭がぽつんとついている。
時々ヤンキーの改造車が唸りを上げて湖畔の道をゆくほか、世界は静かだ。
水に映る遠い民宿の光は湖面に寸分違いない分身を作る。
なにかがぽちゃりと跳ねる音がした。魚は涙を流さない。
心をわしづかみにされて、毒針でつつかれて、底無し沼に入ったような錯覚を受けて、ちょっと前からいろいろ考えさせられている。
希望しなければ失望しない、そんな老人臭い悟りまがいの気持ちより、自分の最大幸福を求めて日々素直に動いていきたい、そんな理想論は遠い昔にかかげた。
でも実際毎日を生きている自分はどうだろう?
僕という鎖に縛られた個体は、前者のように、冷めた世捨て人のようなつまらない感情を持って生き続けている。
自分でかけた鎖の鍵をはずさない限り、新しい幸せは得られない。もちろん、鍵をはずせるのは自分しかいない。
こういう非日常空間に身を置くと、そんな鍵は簡単にピッキングで開けてしまえるような気がしてくる。
でもきっと街に戻れば、また平穏で幸せな、物足りつつ物足りない日々を送ることに違いない。
いや、違いないとか思ってる自分が嫌だ。
こんなことを書いていたらどこかから嬌声が聞こえて、花火が上がった。
僕はどこにきてしまったのだろう?
どこにいくんだろう?
富士山の山小屋にともる赤い光は、僕を励ましてくれているようだけど、東京に帰った僕がその命の灯のように輝けるかどうかが、人生を変えられるかどうかの鍵のような気がする。
空気は透明に緑が混ざった匂いで、肺に吸い込むと体が洗われる。虫は鳴き交わして愛を語り合っている。打ち捨てられた廃船に静かなさざ波が打ち寄せる。
こういう、長い時間のかかった空間にいると、どうもとちくるった気分になる。マッドネス
こういう感情が人間をアオカンに導くんだろうね
さてと、ぼちぼち宿に帰ろう。電池が切れそうだ