新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

高校野球

今年の高校野球も幕を閉じた。

佐賀の公立校が4000以上の高校の頂点に立つという結果も、番狂わせというよりは、彼らの気持ち、運が一番強かったという言葉で締めておきたいものだ。



スポーツの流行がうつろい、プロ野球も全試合放送されなくなった昨今でも、高校野球の人気が衰えることはない。

いつの時代でもラーメン屋のTVには甲子園がついているし、高野連の加盟校も増え続けている。

そもそもなぜ高校野球というスポーツがこれほどまでの人気を誇るのだろうか?

その理由は簡単である。



高校生が、野球をやるから。これにほかならない。



高校生という時代は人生の上り坂である。体力はみなぎり、ある程度の学業という責任を果たせば多くの時間を自由に使うことができる。

一方で彼らは子供であり、親の管理下におかれる。人生経験も乏しく、社会とのかかわりかたにおいてもまだ不完全さを残している。

気力と自由と不安定さ。バランス感覚を欠いた大いなる力を秘めているのが、高校生という時代ではないだろうか?



野球部に入れば365日のうち、おそらく340日は野球に捧げなくてはならない。それでも高校生活を野球に捧げるのはもちろん、野球が好きという気持ちが勝っているから。これに尽きる。

不思議なことに9人で球を追うこのスポーツは、様々なドラマを生む。増して抜き身のナイフのような鋭い情熱を持った高校生が必死でこれに取り組むのだ。ドラマが起きないはずがない。



高校野球はスポーツという名の教育である。



野球は己を高める個人的な側面と、一人ではできないというチームワーク的な側面を併せ持っている。打席に入れば投手と打者の一対一の勝負で、各々の鍛錬の積みかせねのみがものを言う。いわば武道的な部分に通じるものがある。一方で守備は、お互いが共通の意思を共有し、なおかつ深く理解していなければほころびが生じる。どちらが欠けていても野球の試合で勝利することはできない。よって、野球は素人9人にバットとボールを渡し、「はい、今日の体育は野球です」といっても様にならない、時間の必要なスポーツなのである。



青春の多くを野球に投じる少年。あるときはチームメイト同士ぶつかり合ったり、またあるときは納得できない上下関係に屈しなければならなかったり、髪型も自由ではなく日常生活にも様々な抑制が加えられたりと、様々な煩悶を抱えることとなる。そんな状況の中「やってられっか」と投げ出してしまう者も多くいるが終わってみれば「あれは社会の縮図だったのだなあ」と振り返ることが出来るし、それをともに乗り越えた者の結束は強い。野球チームはいわば勝利という一つの目的に向かって戦う一つの団体である。そこにはこの世界のあらゆる人間の集合体、サークルから会社に至るまでの共通性が潜んでいる。高校野球というのは野球の技術そのものと同時に、結局はその「団体での生き方」を教えているのである。だから野球経験者は「野球に人生を教えられた」という思い出があり、野球を語らずにはいられないし、独自の野球観、野球論を持っている傾向が強い。ちなみに僕も多分に漏れずそこに含まれる。実際にまじめに高校野球をやりきった奴にそんなに悪い奴はいないと、僕は思う。



試合でものを言うのはその団体の勝利への気持ちの強さ、統一感だと思う。甲子園のスターを集めたプロ野球でさえも、戦力的側面以上に、優勝への気持ちの強いチームが最終的に勝つ。高校野球となれば極論を言えばプレーするのは皆15から18の少年の集まりである。そこで問われるのは上述のような結束の強さ、そして勢いだ。

どんなに前評判のいいチームでも、ふとしたことからほころびが生まれ、勢いのある格下のチームに簡単に足をすくわれる。これが高校野球の恐いところであり、面白いところでもある。甲子園に出ればベスト8もかたいといわれるような強豪校も、勢いのある県立に破れるということだ。





少年たちの青春が、甲子園という舞台を得て一層の輝きを増す熱い夏。経験者は自分の現役を思い出し、そうでない者にも何か熱い感情をわきあがらせる。



たぶんそれは高校生が、野球をやるからなのだ。



特待生問題で揺れた今年の夏に、佐賀の公立校が頂点をきわめたというニュースを見て、こんなことを考えた。