新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

本当に生きるとは

昨日は久しぶりにまさとと連絡をとってみたら、おkとのことだったので久しぶりにゲーセンに行って、大久保安安コース。久しぶりの再会のあまり不覚にも深酒。歌いたい衝動を隠し切れなくなるwww

そして新宿のウタヒロまでっ歩いて徹夜コースを堪能した。

フリータイムで入った時点で履歴にアンインストールや魔理沙ふぃぎゅ@やみくるの文字が踊っており、どんな客だよと思いつつ、履歴を受け継ぎアンド補足して、5時間歌いつづけた。まさとはバラライカにはまっていた





そんなこんなで朝を迎え、1限に急ぐ僕は大学で異様な光景を目撃。

「不審者が構内に乱入しておりますので、気をつけて通行してください!」と警備員。

「アンタは話にならない!ビラを配って何が悪いんだ!?」と挑発的に話す男。

機関紙の束のようなものを抱えて「全部ぶっこわしてやれ!」と叫ぶ男。



話によると、法政の中核派のようで。かつてない数の警備員が動員され、騒ぎは収まったようだが彼らは去り際「また来るからな!」と吐き捨てていったとか。



まあそんな一日。金八見た?TVつけたらついつい引き込まれてしまったお

初回は「公立中学校選択制における、中学校の混乱」「進学至上主義の蔓延における、教育の意義の失墜、モンスターペアレンツに悩まされる子供たち」「ネット上の匿名学校裏掲示板サイトにおける誹謗中傷」みたいなのが出てきた。



金八先生は茨城のり子の詩、年間3万人をこえる日本の自殺者(イラク戦争は2万人だとか)をHRで扱って「君たちが本当に生きている瞬間はいつですか?君たちはなぜ勉強するのか、わかっていますか?勉強を終えて出て行く社会は戦場のように厳しいところかもしれません。その時、自分が何のために生きているかを持っていないと、耐えられずに命を絶ってしまう人もいるのです」とメッセージを送ってた。



人が生涯を閉じる時、自分が本当に生きた日がどれだけ少ないかを知るだろう



みたいな内容の詩だったけども。僕の生きている瞬間とは何か。ゲーセンにいる時も、肉を食べている時も、歌っているときも、プールで泳いでいる時も、新聞の部室でパソコンをいじっているときも、僕はそこになにかしらの魅力を感じ、それ選択して、堪能しているという共通点に変わりはない。しかしそこに生きた実感を感じているかと問われると僕ははっきりと首を縦に降ることをためらう。どちらかというとそれらの行為は単なる快楽の積み重ねに区分されるのかもしれない。

では僕が感じる本当に生きている実感とはなにか。まあそんなことを急に考えても無理な話だが、感覚的に言葉を選ぶとすれば僕にとってのそれは「絆を感じるとき」だろうか。



人に限らず、この世界の生命体が独立した個であることは紛れもない真実だ。その中で人は伝達、保存が可能な「言葉」というツールを持ち、それを媒介にして個を集団にまとめることで進化してきた。

一方で、成熟した現代は精神的に個の時代になりつつある。心の核に踏み込むことはタブーとなり、自分の問題は自分で解決する、できないなら自壊するまで。互いの適度な距離は遠くなっていき、「君は君で僕は僕」。

たぶん人の心には厚みは異なるものの、絶対的な壁(ATフィールドww)があり、その内部は決して他者と共有されることはない。それを失えば人間の精神は自他の境界線を失い、意識の混沌を招き決壊するだろう。それは他者とのすれ違いを感じなくてす済む世界だが、そこには個としての意思、幸せはない。たとえば、人間に意思が一つに補完され、機械に管理されるようなマトリックスの世界を思い浮かべれば想像に難くないかもしれない。



しかし人は一人ぼっちでは幸せに生きていけない。集団で何かしらの仕事を持ち、そこから生きる糧を得ている。そして人が集団から得る糧は金貨やパンだけではない。「絆」だ。どんな絶対的で強力な個性を持った人間の集まりでも、一つの目的に向かって真摯に取り組み、上手い舵取り役を得れば、一体感を得ることができる。スポーツでも学祭の企画でもなんでも、全ての人間の集団にこれはあてはまると思うし、そこから得られる絆は、何よりの人生の宝だ。

絆に結ばれた気の置けない仲間同士だと、些細はあいさつさえも生きる活力に変わるから不思議なもの。



綾波レイは、なぜエヴァに乗るのか?と答えた時、「絆だから。私には他になにも無いもの」と答えた。ともに死闘を潜り抜けた後シンジは「私には何もないなんて、そんなこと言うなよ!さよならなんて、そんな悲しいこと言うなよ!」と叫ぶ。

自分は一人ぼっちで弱く、必要とされていない個であると思っていたシンジは、近づき難さを感じていたレイと自分との心の疎通を通して、互いの目的を一つにしてそれに向かうことで、どんな人間も個は個でなくなる、自分も世界と繋がることができるということを実感として得る。まさに劇場版副題YOUARE(NOT)ALONEが凝縮された場面ではないだろうか。とヲタ話はここまでにして。



とりあえず結論。絆から得る一体感こそが、文明社会に息づく人間の原始的快感であり、本当に生きている感覚と呼ぶにふさわしいものではないだろうかと僕は思う。

だから僕の所属する集団のナカーマはみんな愛しくてしょうがないのですよ。ハイ、きもいですね。でもまあ、そのほうが人生楽しいと思う!



毎度考えさせられますなあ