悠揚せまらざるアラブ人とバベルの塔
周知の事実かもしれないが、僕は新宿の隣、大久保の大手チェーン喫茶店でアルバイトをしている。
大久保という土地は、国籍のサラダボウルと言っても過言ではなく、雑踏を歩いていても日本語はあまり聞こえず、中国、韓国語が飛び交い、ターバンを巻いた肌の浅黒い人々が闊歩する、そんな街である。
そして今日もまた、若干グローバルなお客様が来店された。
「モカ!!」
アラブ系の、たくましい二の腕に鮮やかな刺青を彫っている男は悠揚せまらざる口調でそう注文する。
ここであまったるいカフェモカを提供するのか。
それとも彼はコーヒーの豆の種類を注文していると考えて豆の種類をオススメした上でコーヒーをオススメするか。
正直、わかりませんでした
非常に残念なことは、僕の英語力が乏しかったこと、そして同様に彼の英語力も乏しかったことである。結局、カフェモカとコーヒーを作り両方オススメした上で、彼はコーヒーを選んだ。
ソーサーを持った彼が去り際に残した笑顔とカタコトの
「アリガトウ」
がせめてもの救いである。
言語の違いを謳ったエピソードとして、バベルの塔のそれがある。
大昔、神の世界にまで届く高い塔を建てようとした傲慢な人類に制裁を与えるために、神々は人々を同じ言葉で話せず、相互に意思疎通を図ることができない存在にしてしまったという。
結果、言語による人々の統制も不可能になった。その結果、人類は全地に散っていかざるを得なくなった。
言語の違いの結果、様々なすれ違いが起こり、人類は英知の統合が困難になった、ということである。
例えば北朝鮮の例をご想像願おう。
拉致被害者の返還を日本は願う。百歩譲って北朝鮮に拉致被害者が健全だったとして。北朝鮮が拉致被害者を返還したとして、日本から経済援助という見返りが得られるかわからないというのが現状。
だから拉致被害者も返せない。
日本が拉致被害者の問題に目をつぶったとして、経済援助をするから核開発をやめてほしいとする。しかし経済援助をしても核開発抑止をしてくれるかはわからないのが現状である。
この例から言えることは「背信が背信を生む」
もし何かを施したとしても、結果が全く見えないがためになにもできないという状況だ。
結果として、言語の違いは民族の違いを生み、互いの背信を生むということになってしまったのだ。
言語が違っても互いに上手くいっているケースは多くあると思うが、多くの文化的、政治的すれ違いの根源にはやはり言語という大きな壁が横たわっているのではないかと思ってしまう。
だからどうしろと。はっきり言ってわかりません。
しかし、逆に言えば。
「他言語を学ぶ」という行為は、神が創った大きな壁すらも越える相互理解の第一歩と言っても過言ではない崇高な行為ではないのかと、そう思ってしまうのです。
だからこそ多くの言語とその言語にまつわる文化を知っている人は尊いのではないかと。そう思うわけです。
何を言いたいのかと申しますと、今人類が統一言語にしようとしている英語能力を少しでも上げること(様々異論あれど、アジアの人々とも英語で会話するのが自然ということになっているのでは)を目標に頑張りたいなと、そういうことです。
長くなりました。
明日も朝早くからバイトです。けいおん見てすぐ寝ます。では。