新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

熱闘甲子園。そして追憶



熱闘甲子園…この番組を高校生として見れるのも今年で最後と思うと寂しいが、だからこそと思い今年はできるだけ録画&見逃さないようにしようと思っている。



この日記で何度か書いた通り、この番組は甲子園報道番組の中でも僕にとっては一段上の存在だ。

まず、番組の存在自体が大会期間限定であること。そして敗者の努力を褒めたたえること。これがこの番組を魅力的にする理由だろう。といいながら、今年のオープニングにはあまり称賛できたものではない(個人的な理由で)。

まずテーマがスガシカオだ。まあ嫌いな部類に入るわけではないのだが、もう少しなんとかならなかったのか?と思わざるを得ない。希望としてはコブクロ(でも前に一度テーマになってた)かビギンみたいな人にやって欲しかった。あとはガガガスペシャルとかね。

男ならぬ漢の夏っぽい曲か、それとは両極端に爽やかな曲か。川島あいとか。あとは映像の内容だ。前半の野球部の練習風景はいい感じなんだが、後半で女子高生が野球部員に手づくりのお守りを渡す場面はなんじゃオラ!!こんな胸キュンなシーンを迎えた高校球児が全国に何人おるかしっかりと調査済みかテレビ朝日!?まったくこれには我慢ならんぞ!ガガガSPがテーマならこんな映像は流れなかったはず(笑)

もし僕がディレクターなら、坊主の集団がプリクラの機械の中で格闘するシーンを後半に入れるね(そのね、公式戦が終わったその日に高三の仲間でプリクラを撮ったわけ。一度に9人機械に入って。今それを眺めると3年間の高校生活を象徴されてるなとしみじみと思い知らされるわけ)まあオープニングに関してはあまりにも去年のZONEと選手の顔写真が浮かぶ構成がよすぎたから。熱闘甲子園というとすぐにあの画が脳裏をよぎるくらい。まあ男子高生向けだったんだな(笑)



さて、内容は毎回やはり期待に違わぬ素晴らしいもので、これを楽しみに暑い一日を生きようと誓うに値する番組としては文句はない。







話は変わるが、最近日常生活の中でふとした瞬間にある光景が過ぎるのだ。全く野球のことを考えていなくても。

それは7月15日の駒沢球場。対都立小松川高校との試合。

9回表を迎えて僕らは8対4で負けていた。

しかしこの試合、いまだ僕の出番は無く、監督から代打の準備をするように言い渡されたのは僕以外にベンチにいた3年生のO君(彼は主力だったが、怪我で守走が無理だった)と2年生だった。もちろんチームの勝ちが優先だ。チームの勝利のため実力のある者が試合に出るのが野球だ。自分が出ることよりチームの勝ちを願うのは必定だ。
しかし心でなんと諌めようと、僕の中では試合に出たいという思いが煮え繰り返っていた。ここで出して貰えずに高校野球が終わったらやりきれないなどという情けないことまで考えた。しかし代打で先頭打者として打席に立ったO君のヒットで僕は目を覚ました。
僕はO君に叩き起こされていなかったら、勝つことを忘れて自分が試合に出ることだけを悶々と考える情けない選手になっていたのだ。



後続もエラーで出塁した時、監督にこう言われた。

「満塁になったらお前。準備しとけや」

何十年も高校野球を見てきた監督の一言は僕に自信をつけさせるのに十分なものだった。



打席に立つに当たって、僕は試合前から覚悟していたことがあった。それは、ストライク初球を振りきること。

僕は、代打として出ても、大会前の練習試合では結果を残すことが少なかった。仲間からは、びびってんじゃねえよとか、お前のためにアウト一つやる余裕はうちのチームにはない、と言われた。

監督にも、近頃のお前にはいい部分がない。思い切りがない。と個人的に話された。

それまで練習試合で代打で凡退したときのパターンには共通点があった。必ず見逃し、空振りストライクをとられていることだった。
大会前日、僕は絶対に見逃しをしたくないと思い、バッティングセンターで球を見た。打つことは二の次くらいの覚悟で球を見た。

そしてその約15時間後、審判に自分で代打を告げ、放送に背番号を見せ、僕は打席に入って足場をならした。最近僕の脳裏をよぎるのはこの次の場面なのだ。

初めは、塁上に全てランナーがたまり、暑さが立ち上るグランドには存在しうる最大数の野球選手が立っているシーンから。

そして次の瞬間、苦しい顔をした相手投手と目が合う。

恥ずかしながら、その時僕が思い出したのは、ドカベンにでてくるキャラクター、岩鬼のセリフだった。
「ヒーローには自然とそれにふさわしい場面ができるんじゃい」
僕がヒーローになりうる場面がめぐってくるなんて今までの野球人生では思ってもみない話だった。しかしその瞬間は本気でそう思っていた。ナルシストである。しかし勝負事ではこれくらいのハッタリが意外とものをいうのだ。

僕はストライク初球を叩くことしか考えなかった。



1球目、ボール、2球目、ボール。



3球目、明らかなストライクだった。何も考えずに振りにいった。頭と体は別々に動いていた。手のひらにバットかた伝わる痺れはなかった。芯で捕らえたなと思った。

しかし打球は大きな孤を描き、レフトのブルペンの奥、プロ野球場でいうなら内野自由席あたりに飛び込んだ。ファール。

しかしやることは変わらない。見逃さない。



4球目、ボール。5球目、外角低め外れてボール。



フォアボール。押し出し1点。



その後は相手の自滅とこちらの押しで一押しで勝つのだが、僕の回想はいつもフォアボールの時点で終わる。







野球は「もしも」のスポーツだ。

ドカベンで殿馬が「野球にタラレバはないづらよ」と言うように、頭脳プレーヤーや名コーチほど、野球にそうだったら、やそうであれば、はないと断言する。

だが日本人がこれだけ野球を見ることも、プレーすることも好きなのは、自らの人生を1つの試合に重ね合わせ、エラーやヒットを見ながら、もし〜だったら…と思いを馳せることをひとつの醍醐味ととらえているから、といえるのではないか。



僕の場合は、あの場面で打っていたら、ということである。しかしその反面、チャンスを継続し、点を入れられてよかったと満足してもいるのだ。

5球目の、ワンバウンドしてキャッチャーミットに入ったボール。これを見た瞬間に、打てなかった…という気持ちと、出塁できた…という気持ちが同時にきて戸惑った。

この戸惑いが、僕の脳内で満塁の打席を何度も描きだしているのだろう。

過ぎたことをどうこう言ってもしかたない。ごもっともである。

しかし今となっては、自分が公式戦に立ったあの瞬間を回想し、空想を広げるのが僕の楽しみだし、それが僕の高校生活で1番鮮やかに刻まれた記憶であることに間違いない。



あの満塁の内野と、ピッチャーの目を、僕は忘れられないだろう……