新・時の軌跡~yassuiのブログ~

旅の話、飯の話、リビドーの話。

カフカフカフカフカ



カフカ実存主義は彼に始まったといっても過言ではなく、その入門としてふさわしい著作が「変身」だと思う。

人は、地球上の生物の中で唯一、生きていることに疑問を持てる生き物ではないだろうか?特にティーンエイジになり自我が芽生え、自分は世界と完全に繋がった存在ではなく、「個」でしかないと気付いた時(この繋がるというキーワードは、孤高の天才、一人で自ら掘り下げている職の人が何かしら思うところがあるようだ。井上雄彦は、スラムダンクの唯一の天才、流川に孤独な自分を重ね合わせ、連載の終わりに、孤高な流川にパスを出させることによって、世界と繋がる画を描きたかったという。また、村上春樹も人生のテーマに「人とつながること」を上げている。)、自分の生きる意味について考えを巡らせる。それが哲学への第一歩といえるのではないだろうか??

実存主義………倫理の資料を見ると「時代、社会によって与えられる観念から自己を切り離し、自己の主体性に目覚めて、人間本来の自由な在り方(実存)を求めようとする主義」とある。難しくて頭こんがらがります。

まあ僕がいいたいのは、実存主義っていうのは自我の目覚めるティーンエイジャーが初めて自分で自分を見つめ直すことではないか?ということで、村上春樹の「海辺のカフカ」に出てくる世界で1番タフな15歳の、カフカ少年は、カフカという名前である必要があるのだ。

酸欠の頭でこの日記書いてると頭と体が勝手に動いて脈絡がバラバラになる感があるんだけど、今は書きたいから書きます。

一瞬くらい読書で受験から逃げてもいいんじゃないか?と思ってカフカの「変身」を本棚からふととってみた。「変身」だの「異邦人」だの「罪と罰」だのは名作ということで昔一度目を通したが、その時は「は?虫になって家族が苦しかった?なんだこりゃ?」っていう感想しかもてなかった。やはり傑作を理解するには経験と素養が伴わなくてはならない。小学生に森鴎外や芥川を無理やり読ませてもしょうがないのよ、私立小学生の教育ママさん♪

話はそれまくる。あらすじは…主人公グレゴールは朝気付くと巨大な毒虫になっていた。彼は人間であった時、家庭を支える大黒柱だったから、虫になってしまってからは家族の生活は経済的にも、精神的にも追い詰められていく。それと同時にグレゴールは、自分の内部の人間性が時の流れとともに失われ、体も心も虫になっていくことを感じながらも生き続けるが彼と家族の関係にはとうとう限界がきて…というもの。

この小説の1番の特徴は、異常な事件を語る冷静な報告調だ。この手法こそが「社会の観念から自己を切り離す」実存主義の定義だ。

もちろん人がある朝目覚めると虫になっているなどということは普通ありえない。しかしカフカは読者に、なぜだ??!!という気持ちを抱かせるのを承知で、淡々とグレゴールの想いとそれに相対する家族の態度を書き綴っていく。

このことから読者は、なぜだ?!という単なる疑問を次第に忘れ、この事件には何が象徴されているのか?と考えるようになる。

そこからはもう読者の数だけ答がある。

グレゴールは善良な一市民であり、家族の面倒を見る勤勉な男だ。しかしそんな彼が急に虫になってしまう。これこそ世の不条理を現しているのではないか?とか、なぜこんな醜い毒虫になったのか?勤勉な彼の中に巣くっていた仕事への不満で病んだ彼の心が外見を変えた。すなわちこれは病んだ心に原因があったのではないか?とか。

このような象徴的な作品については何を思ってもいいんじゃないかと僕は思う。立派な文学者に論破されるようなこともないんだし、一つの見方で読めない種類の本だし。

この本を読み終わって僕はどうおもったのかというと、やっぱり自分の日常、人生の大切さなんだよね。人間は基本的に生まれてから死ぬまで孤独なんだから、誰に頼ることもない。自分はあくまで自分を生きるしかないんだということに気付いてしまった人達…吉田兼好に始まり井上雄彦村上春樹その他大勢に至るまで…が出した悲痛な叫びこそが「それでも僕は世界と繋がりたい!」というものではないだろうか?

という感じ。

今日の教訓としては、名作は何度か読み返したほうがいいっていうことかな。特に森鴎外三島由紀夫はじっくり読み直したいんだよね。でもそんな時間ないか。早く大学生になりてえ……