カイジとソラニン
お疲れ様です。
今日はカイジとソラニンという、テーマの二極化した映画を一気に見た。
僕が勝手に解釈したところでは、生きるための現実か、大切にしたい夢か。
カイジは、
「夢見たり戸惑ったり、そんな風にして時間を無駄にしている奴らを世間は待ってくれない。戦場で棒立ちになっているところを刺される兵士と一緒だぞ。もっと真剣に生きてみろ」
というダイレクトなメッセージを、
ソラニンは
「自分の本当の気持ちを大切にすること、たとえそれがどんなに険しい道のりであっても」
というテーマを投げかけているんだと勝手に受け取った。
個人的にはソラニン価値観7.5、カイジ2.5なんだよね。
やっぱり一人の人間として生まれたからには誰でも、世界の部品として生きるんじゃなくて、
「自分の世界さえ変えてしまえそうな」
そういう瞬間を実現したいと思うはず。
個性の暴走とか、厨二病とか、そういうのじゃなくて、一つの生きるエネルギーだと思うんだよね。
そう思った時に手にするのが、ある人はギターであり、ある人は絵筆であり、またある人は劇の台本であり、ある人は原稿用紙なのかもしれない。
言いなりになることは多分間違っているし、それを止めた時人は人であることを静かに放棄するんだと思う。少なくとも僕はそう思いたい。
「オヤジやオフクロや教師の言うことを信じちゃダメだ。(中略)・・・なんだっていいんだよ。やっとわかったんだけど、本当の支えになるのは自分自身の考え方しかない。いろんなところに行ったり、いろんな本を読んだり、音楽を聴いたりしないと自分自身の考え方は手に入らない。そういうことを俺は何もやってこなかったし、今からはじめようとしてももう遅いんだ。」村上龍「コンビニにて」より
ギターや絵筆は普段自分が抱えている気持ちを表現してくれるツールであり、自分らしさ、を表現できる舞台だ。
だけれど、そういった行為の目的は、大半はその行為自体であって、ツールを通じて他の人に感傷や影響を与えることでなくなっていくことが多いんだと思う。
同時に、そういった影響を表現という行為を通じて与えていける人間はごく一部であることも、日常を重ねていくことできっとわかってしまうんだ。
そうこう迷っている間にも、時間は容赦なく過ぎて、毎日のご飯を食べていかなくてはいけないわけで。
仕事っていうのはいつもどこでもそうだと思うんだけど、結果がすべてなわけで。
そういった現実と対峙した時の人生の天秤で、自分らしくありたい表現が勝るのか、それとも守りたい日常が勝るのか。
やっぱり日常で守りたいものが増えれば増えるほど、自分の表現を時に捨てなくてはいけないシチュエーションがあるんだと思う。
それが、種田がソラニンの劇中で結局音楽を半分諦めて、芽以子との生活のためにWEBの仕事とバンド練習の二足のわらじを履く決意だったんだろう。
弱いとか、夢見がちとかいえばそれまでなんだと思うんだけど、生きるための動機を捨てたり犠牲にするのって昔より難しくなってると思うんだよね。
昔なら夢追い人よりサラリーマンになれば安定した生活と将来が待っていてっていう価値観があって云々カンヌン、っていうところだと思うんだろうけど、今ほど人生設計の地図にお手本がない時代っていうのも無いだろうしね。
まあまとめると、僕の中の生きるための確実な現実としてカイジ的要素があって、深層部分でのモチベーションとしては、ソラニン的要素があるんだよね、きっと。
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こういうこと書いてちゃいけないんだと思うんだけど、
僕は仕事をして実現したいものとか、夢っていうものが悲しいくらいにないし、悲しいくらいに頭が悪い。
どんなに考えても何もクリアにならない。
ただそんな僕がやりたいこととして明確にあるのは
?誰かのために自分自身で何かをして、誰かを笑顔にすること
?できれば、それは物質的なものでなく、精神的な繋がりであること
これだけだ。
正直笑っちゃうくらいに曖昧なんだけど、今の自分の立場でこの価値観に沿った行動を積み重ねていくことが、僕が働く動機だ。
これに沿ったことを僕は仕事を通じてやり続けるだろうし、それに反することを迫られたら、僕は拒否すると思う。それが僕のできる唯一の反抗なんだろう。
ただ現実としては自分の明確なビジョンを作らなくてはいけないタイミングが否応なく訪れつつあるわけで。
そんな時僕は、じっと手を見る。